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相対の羅列

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年十月時点のものです。それ以降は未来のお話です。

              運のない人

「運のない人」
 と、
「運が悪い人」
 と二つの言われ方をする人がいるとしよう、果たしてどちらが、本当に悲惨な人間なのだろうか?
 何かをするたびに、自分の選択が間違っていたために、逆の結果ばかりが出てしまう人がいる。
 そんな人が、
「じゃあ、俺が考えるからまずいんであって、運を天に任せて、何も考えないで行動しよう」
 と考えたとしよう。
 理屈から考えれば、いつも逆に出ているのであれば、
「自分の考えの逆だったら、すべてがうまくいくはずだから、考えたことの逆をしよう」
 と考える人もいる。
 どちらがいいのか悪いのか、これはいい悪いの問題というよりも度胸の問題なのかも知れない。
 その度胸は三段階に別れるだろう。
 一つは、自分の考えの逆を行う人であるが、この人は、とてつもなく度胸のある人ではないだろうか。
 運が悪いからと言って、自分の考えの逆ができる人は、考えればそうはいない。なぜなら、自分が最初に考えたことを曲げてまでやってみて、それでも結果が悪かったらどうだろう? 救いようのない結果に見舞われるのではないか? 後悔が自分の中でスパイラルを繰り返し、後悔が後悔を呼ぶのだ。
 野球選手の投手が、捕手とのサインのやり取りで、
「投手はストレートを投げたいと思っているのに、捕手は、無難にカーブを要求する」
 という場面があったとしよう。
 普通であれば、捕手のサインにしたがって投げるのが常套手段なのだろうが、投げるのは投手である。
 自分の意見を変えてまで投げるのだから、いくら真剣に投げたとしても、迷いの入ったボールである。ホームランでも打たれたら、投手の方は絶対に、
「だから、ストレートが泣けたかったんだ」
 と思い、その時押しきれなかったことに対してさらに後悔が募る。
 捕手としても、必死のつもりでカーブを投げさせたのに、投手の気持ちが入っていないことを責めることはできない。捕手なのだから、それくらいのことまで考慮に入れ化ければいけないということであろう。
 こうなってしまうと、バッテリーの呼吸はまともではない。試合も壊れてしまうし、この試合だけの問題ではないだろう。
 一つの選択が、下手をすれば、二人の選手生命に大きな影響を与えるかも知れない。
 捕手は、投手に遠慮するようになってしまうだろうし、投手は、もう絶対に自分の意見が通らないようなら、捕手を変えてくれとでもいうだろう。そうなると、二人だけの問題ではなくなってしまうのだ。
 野球のように、捕手に責任をおっかぶせることができないのが、運の悪い、運のないということに対して、自分だけで、その打開策を考えて、結論を出すということは、もうどこにも逃げ道はないということで、これほど度胸のいることはないだろう。
 野球のように、団体プレイだと、その流れで判断できることもある。しかし、自分だけしか知らない。過去は自分の心情を思い図ってくれる人は誰もいないのだ。決定するのは自分しかおらず、人の意見を聞いても、それはあくまでも、ただの意見でしかないのである。
 このような人は、一番度胸のある人ではないだろうか。少々のことでも自分の意見を曲げない人、そういう人間が一番度胸がある行動ができる。それだけ、
「後悔するのが、怖い」
 とも言えるのではないだろうか。
 もう一つは、
「何も考えない」
 という人である。
 この人がある意味、一番比率としては多いのではないかと思う。
 何も考えないということは、
「運を天に任せている」
 ということであり、決める時は自分の意見を持っていたはずなのに、それが叶わないと、自分の考えを否定してしまう。
「叶わないのではなく、敵わない」
 ということであろうか。
 つまりは、自分の意見を、敵として考えてしまうのだ。
 そう感じることがある意味気が楽だと思うからであるのだが、ここに大いなる危険性が潜んでいるのだ。
 一体何が楽だというのだろうか?
 自分の意見を完全に無視して、まわりの流れにだけ任せるというやり方。そのどこに自分があるというのだろう。
 自分を殺してまで前を見たとして、そこに何があるというのだろう。自分を殺すということは、自殺ではない。抑え込むという意味で、そこに自分のプライドや意見を少しでも残してしまうと、何も考えていないことにはならない。
 前が見えない状態でも、不安に感じることなく、前に進むことができるだろうか?
 風で少し揺れただけでも、グラグラして、谷底に落っこちてしまいそうな吊り橋の上に置き去りにされてしまった場合を思い浮かべる。
 前を見ても、後ろを見ても、どちらに進んでいいのか分からない状態。どこから来てどこに行くのかが分かっていれば、まだマシだと言えるだろう。
 それでもちょうど中間にいて、前を向いた時と、後ろを振り返った時、どちらが近いのかと言われると、前後ろが分かっている人には、
「前の方がよほど、近く感じる」
 と感じさせるものだ。
 だが、風が吹いて、急いでどちからに行かなければいけないと考えた時、頭ではどっちに行きたいと思うだろう?
 目の前に見えている状況だけでは、急いで渡り切ってしまった方はいいように思えてくる。
 だが、実際に頭で考えると、
「前を向いて先に行ってしまったとしても、また同じところを通って。元に戻らなければいけない」
 と思ってしまう。
 そうなると、先に進むことを怖がってしまい、元に戻ることだけを考えてしまうだろう。しかし、後ろに戻ろうとすると、どれほど遠くに感じられるか? 目の前の恐怖をいかに逃れるかという思いと、
「このまま抜けてしまっても、また同じところを戻らなければいけない」
 というリスクを比較した場合に、自分の度胸がどこまで持ちこたえられるかということまで考えなければいけなくなってしまう。
 リスクと度胸を重ねて考えた時、接しているようで、実はそれぞれにどんでん返しのように、両方が表に出ているということはありえないように思えてくる。
 つり橋の中央で、前にも後ろにも進むことができない時、
「後ろに戻るしか、方法はない」
 と、きっと何も考えないというやり方を選ぶ人は考えるに違いない。
作品名:相対の羅列 作家名:森本晃次