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相対の羅列

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 さらに、まったく正反対のように見えて、この共通点からか、切っても切り離せない状態のように思え、それが、磁石のS極と、N極のような関係に思えるのであった。
 しかし、それ以上に人間として感じるのは、
「SMの関係のようではないか」
 ということであった。
 しかも、
「どこか歪んだ関係」
 という風に感じるのだった。
 自分のことを、
「案山子の妖怪のようだ」
 と感じたのは、佐和子だった。
 この間の合コンの時、純也との会話の中で、彼が話題に困ってひねり出したわ台が、この、
「案山子の妖怪」
 の話だった。
 純也が自分で解釈した内容なので、一般的に知られているような話とは少し違っていたのだが、純也の話し方が印象的だったのか、それとも、純也の解釈が自分のことを言っているかのように思えたのか、その時から、佐和子は、
「自分が、案山子の妖怪のようだ」
 と感じるようになった。
 その時から、何千年という意識が時間という感覚をマヒさせて、時間を意識させないようにしているかのように思えるのだった。
 急に、
「私って、何千年も生きていたら、どんな気持ちになるだろうか?」
 と考えてみた。
 純也は怖くて想像もできなかったのだが、佐和子は、意識して想像してみたのだ。
 それだけ、時間というものに対して意識が深く、数千年という意識の恐ろしさが、頭をかすめるような気がして仕方がなかった。
 そういえば、純也が、
「この話を考えている時って、独り言ばかりを言っているらしいんですよ」
 と笑いながら言ったが、その時の佐和子の表情は真剣な顔つきになっているようで、笑いかけているくせに、顔が引きつっているようにしか見えないのは、それだけ話を真面目に聞いている証拠なのであろう。
 佐和子は自分の独り言が、何千年も同じところにいて、まったく変わることのない毎日。動くこともできないのだから、それも当然のことであり、たっだ一日のことであっても、果てしなく、まったく何も変わらない毎日が過ぎていくだけ、
「何度、朝が来て、夜が来たというのだろう? 身動きができないのだから、数えることもできない」
 ただ、分かっているのは、何千年という月日が経ったということだ。
 そして、ずっとそこにいれば、いつ救世主が現れるか、分かってくるようだった。
 このお話が出来上がった時、妖怪は一人の青年に出会うのだが、その予感はあったのだろうと、佐和子は確信しているようだった。
 もちろん、
「あと何日」
 という予感はあったのだろうが、予感が生まれてから、実際にその日が来るまで、どれほどの時間の感覚を覚えたというのだろう。
「気が付けば、経っていた」
 ということはありえない。
 その日が来ると分かっていて待っているのは、普段であっても、時間が経つまでに、想像以上のものがあるはずだ。
 それだけに、その日が来ても、無意識に過ぎ去ってしまうかも知れないと感じたとしても、無理もないことのように思えたのだ。
 その日がやってきて、自分がやっと妖怪から、元の人間に戻れると分かった時、人間に戻るのが怖く感じられたものだった。
 妖怪になってしまった時は、それほど不安ではなかった。まるで自分の運命のような気がして、実際に妖怪になってしまうと、時間の感覚から、寂しさなどという感情は浮かんでこなかった。
「やはり妖怪というのは、人間が感じる感覚とはまったく違うんだ」
 と感じたからだった。
 それが、数千年の歴史を経て、元の人間になっているのだ。自分が人間だったなどということすら忘れてしまっている。
「人間に戻ってしまうと、きっと、妖怪になった時に感じるはずだった不安感がよみがえってくるに違いない」
 と、感じたのだ。
 佐和子は自分のことを、
「目立ちたがり屋だが、Mの性格を持っている」
 と思っていた。
 その感情の由来は、この、
「案山子の妖怪」
 の発想から来ているのかも知れない。
 逆に、ゆいかの方は、
「いつも誰かの陰に隠れているのだが、芯はしっかりとしていて、佐和子の前では、完全にSであり、主従の主の関係である」
 と自分でも、最近になって考えるようになった。
 その考えは、石ころから来るもので、
「自分は、向こうが見えているが、向こうではまったく意識をしていない」
 というような発想を、昔中学時代に、図書館で見た本に書いてあった。
 その本は、天体の本であり、星座や神話のような物語やメルヘンのような話ではなく、もう少しリアルは発想で、天文学に近かった。しかし、すべてが解明されている話というわけではなく、学説として言われている話だというものも、そこには書かれていた。
 ゆいかに一番興味を持たせたのは、
「世の中には、すぐそばにいるのに、まったく見えない星が存在している」
 という発想だった。
 最近になって言われるようになった話だというが、ゆいかには、
「今まで、どうして誰も発想しなかった内容なんだろうか?」
 というものであった。
 確かに、あっても不思議のない発想なのに、誰も発表しなかったというのは、
「一度は皆考えたが、裁定、学説として発表できるようになるまで、理論的に話を突き詰める」
 という必要があり、発表するにあたって、突き詰めていった時、どこかに結界が存在し、話を具体的にできなくなってしまったからではないだろうか。
 具体的に発想はできるのだが、その発想を論文にまとめようとすると、いたるところで矛盾が生まれてくる。
 それは、異次元の発想にあるような矛盾であり、
「この、存在していると思われるが、表に出すことのできない発想は、パラドックスを突き詰めると、ビックバンを引き起こすようなものなのかも知れない」
 と感じるのだった、
 過去にいくことで、未来が変わるという発想、それは、
「自分の方からは見えるが、相手からは見ることができない」
 という発想にどこか似ているのではないだろうか。
 過去というものは、未来の人間にしか分からないことであり、それは、自分が見えているのを同じ発想であり、逆に未来は絶対に見ることができないという発想は、向こうからは意識しても見えないという発想と同じではないだろうか。
 異次元の発想には、そこに結界があり、結界がパラドックスとなって、三次元の人間には見ることができないのだ。
 では、二次元の世界と三次元ではどうなのだろう?
 二次元の世界から、三次元を見ることはできるが、三次元から二次元の世界は見えていても、そこが二次元の世界だという意識はないのではないだろうか。
 となると、三次元にいる自分たちに、どの次元であっても、異次元を見ることはできないということになるのだろう。
 平面や線、点を感じることはできても、それが何次元なのかという発想はない。平面を見ていれば、そこには線もあれば点もある。一次元なのか、二次元なのか、分からないに違いない。
 見えているのに見えないそんな世界、それが逆の発想の三次元なのかも知れない。
 ひょっとすると、その星は、
「四次元から三次元を見た時に感じる世界」
 と言ってもいいのかも知れない。
作品名:相対の羅列 作家名:森本晃次