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相対の羅列

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 というものを創造するのかは分からないのだ。
 あの世というもの、極楽というものは、この世にある地獄というものがハッキリと見えている人間でなければ創造もできないのではないだろうか。
 そして、この世の地獄を見ている人は、それぞれ、自分の地獄を、果たして宗教が救ってくれると思っている人ばかりなのであろうか。
 それを思うと、世の中というものを、人それぞれが一生懸命に生きているので、それを一部の特権階級の連中が貪っていても、そのことに気づかない人も少なくはない。だからこそ、脈々として続く、支配階級に支配される搾取という負の連鎖が、受け継がれてくる世界が、永遠に限りないものとなっているのだろう。そこに宗教が付け込んだと言ってもいいのか、それを思うと、宗教にはかかわりたくないと思えてくるのだった。
 昔、明治の文豪が書いた短編小説で、地獄と極楽を描いたものがあった。それぞれを描いたわけではなく、その間の世界を結ぶ世界を、人間の心情を元に描いたもので、その小説を小学校で習った時、一番最初に、小説というものに触れた気がした。
 漠然とであるが、天国と地獄というものを知っていた。それはいかに知ったのかということも曖昧だった、
 漫画で見たものだったのか、田舎もおばあちゃんに聞かされたものだったのか、ハッキリと覚えていない。それでも怖いと思ったのは、想像以上だったからではないだろうか、
 テレビのアニメでは、そこまで恐ろしいものはやっていなかったような気がする。
 いや、今から思えば、本当はやっていたのだが、怖くてそのアニメを見ることができなかったという方が正解だったかも知れない。
 学校でそのアニメの話を皆が始めた時、
「お前、今週見ていなかったのかよ?」
 と言われて、それについて何も言えなかった。
 一回分を見ていなければ、次から見ることはしなかった。それは連続ものであっても、一話完結においても同じことだった。
 一話完結ものであっても、一回分、見逃してしまうと、自分だけが取り残された気がして、次を見る気がなくなってしまうからだった。
 考えてみれば、週刊漫画雑誌においても同じことだった。
 その一週間分を見なければ、その雑誌を買うことをやめようと思ったくらいであり、実際にやめてしまったことがあった。
 もっと後悔するかと思ったが、それほど後悔することはなかった。
「お前、見てなかったのかよ」
 と言って、その漫画について話がついていかなくても、それはそれでよかった。他のことについて話が続けばそれでいいと思っていたからだ。
 他の連中は、話に入れないのが嫌で。必死になって見ていた。
 しかし、純也は一度、一週間分を見なかったことで、皆と意思の疎通という意味で、穴が開いた気がしたのだが、それは、自分が最初から恐れていたほどには感じなかったのだった。
「なんだ、こんな程度のことだったんだ」
 と思うと、友達に何を言われようとも、気にしなくなってきたのだ。
 そう思うと、そのことに対してだけ話が通じないと思うだけで、何ともなかった。逆に、そのことを気にしすぎて、自分が必要以上にまわりに気を遣ってしまうと、まわりも、自分の意識を必要以上に怖がってしまっていて、お互いに気持ちのすれ違いを生むことになってしまう。
 気持ちのすれ違いというものが、いかに恐ろしいか、それが、天国と地獄の小説を思わせたのだ。
 あの小説を最初に読んだ時、
「ラストがどんな内容なのか、想像がついたような気がするんだ」
 と後になってから思うのだった。
 だからこそm印象に深く残った小説なのかも知れない。
 印象に残る小説というのは、何も感動を与えるものだけではない。普段と違う感情を与えるようなそんな小説をいうのではないだろうか?
 小説というものも、漫画というもの、
「途中で、読めなかったことで後悔してしまったりするものは、最初から面白くないと思っているのかも知れない」
 と感じた。
 というのも、
「自分が本当に興味を持つ小説というのは、本当であれば、ラストを想像できるものなのだから、途中の一週間を見逃したとしても、それでもいいから、ラストを見たい」
 と感じるものではないかと思ったのだ。
 天国と地獄の小説も、最後は、人間の欲望のために、我慢できなくなり、
「自分だけが助かりたい」
 という気持ちが芽生えたことで、生き残ろうとする。
 だが、それが本当の人間の欲望であり、なぜそれが悪いことなのか?
 と、後になって考えた。
 確かに、教育として、そして、小説としては、自分だけが助かりたいと思うと、最後には糸が切れてしまうのは当たり前のことであり、それを最初から想像できたと思うのだ。
 だから、自分が最初から思っていたことが、自分の中で矛盾になると分かっていたから、印象に残ったのであって、最初から分かっていたことなのだろう。そう思うと、印象に深いものが、必ずしも自分の考えと同じだと言えないところがあり、sれが都合よく、夢を見せるのではないかと思うのだった。
 天国というものよりも、何といっても地獄の方が当然印象が深い。それをなぜかと思っていると、今から思えば、子供の頃に旅行で行った、
「地獄めぐり」
 ではないだろうか。
 温泉地の名物として、地獄めぐりというのがあった。
 血の池地獄であったり、海地獄、山地獄、竜巻地獄などというのもあった。
 その一つ一つがどのようなものだったのかというのは、正直ハッキリとは覚えていないが、それはあくまでも、自分の意識の中で、
「怖いものだ」
 という気持ちがあったことで、地獄を詳細に覚えるということをしなかったのだろう。
 ただ、夢の中には何度か出てきた。
 だが、その時には、必ず天国とセットで出てきたのだった。
 天国というところには、蓮の花が咲いていて、花が咲いているとことは池である。その池のほとりには一人の人が立っていて、その人は光り輝いている。
「どこかで見たような」
 と思うのだが、その人はずっと笑っているのだ。
 ただ、ずっと笑っているくせに、その顔はまったくの無表情なのだ。何を持って無表情なのかというと、その表情には感情が感じられないからだった。つまりは、何を考えているのか分からないということだった。
 そう思うと、その顔が怖くて仕方がない。
 なぜなら、お面をかぶっているように思うからだ。
 子供の頃に感じた夢というと、その顔は、鬼のお面だという印象が強い。怖い表情をしているくせに、顔の表情がまったく変わらない。あまりにも怖いせいで、一つの表情が頭にこびりついてその表情以外思い浮かばないのだ。
 夢というのはそういうものではないだろうか。
 怖い夢だけを覚えているというのは、その顔が恐ろしいと思っているからで、それは顔が怖いからではなく、
「まったく表情が変わらないからだ」
 と思うのだった。
 表情が合わらないという印象はどこにあるのかというと、
「のっぺらぼうのように、見えているつもりでも、怖いから、覚えていたくない」
 と思うのではないかということであった。
 のっぺらぼうというのは、本当は見えているのに、覚えていないだけで、なぜ見えていないように見えるのかというと、
作品名:相対の羅列 作家名:森本晃次