相対の羅列
独り言が多いのも、目立ちたがり屋な証拠だと思っているし、独り言が多いのは今も同じだが、目立ちたいと思うことはなくなっていた。
独り言をいうことで、
「俺はここにいるんだ」
と、まわりに叫んでいるようで、その時は別に何とも思わないのだが、後になって思い出すと、顔から火が出るほどの恥ずかしさに見舞われてしまう。
そんな自分に自己嫌悪を示すこともあった。
「後から恥ずかしいと思うようなことなら、最初からしなければいいのに」
と思うのだが、目立ちたがりというのは、一度態度に出してしまうと、それをひっこめる勇気はない。
それだけに、表に出したことを必死になって正当化しようとし、言い訳を連ねてしまう。それがまた恥ずかしいのであり、恥ずかしさのスパイラルを重ねていくのだった。
最近の純也は。
「どっちが本当の自分なんだろう?」
と思うようになっていた。
まわりに気を遣って、人の役に立つ自分を好きだと感じているのと、目立ちたがり屋で、いつもそのために独り言を言っている自分である。
それぞれにまったく正反対なのに、どちらも本当の自分に思えてならない。どちらも、自分を納得させようとしている態度が全面に出ているのだけは感じられた。
片方は、そんな自分をいじらしいと思っているのと、もう一つは、言い訳にしてしまっていることを、何とか自分で納得させようと思っている自分である。
ただ、最初に感じた自分の性格は目立ちたがり屋だと思ってことであり、そんな自分にどこか嫌悪を感じたことで、今度は逆に、
「人の役に立てる自分」
というのを見たからではないだろうか。
もちろん、いきなりそんなに変われるわけはない、その間に何かのきっかけがあったことだろう。
何しろ人の役に立つというのは、自分を殺している感情であり、第三者目線で見なければ見ることができないと思った。
逆に目立ちたがり屋な自分は、完全に主役であり、これを他人事のような目で見てしまうと、これほど恥ずかしいと思うことはない。
つまり、自分が主役なのか、それとも脇役なのかということを、客観的に見ることで、自分が二次的に感じた思いが、産物として生まれてくるのではないかと考えるのであった。
合コンに行った時も、
「他に誘うやつがいないんだよ」
と言われて、本当はただの人数合わせだと分かっていたくせに、嬉しい気分になった。
それは、自分を瞬時にして客観的に見ることができたからで、そういわれた自分が急にいじらしくなったことで、あざとい誘いのセリフに、嬉しい気分になれたに違いない。
「俺は、嬉しくなれれば、おだてであっても、それでいいんだ」
と思うようになっていた。
だから、まわりから、
「純也はおだてに弱い」
とすぐに見抜かれ、
「都合よく扱われてしまうに違いない」
と分かっていても、それでいいと思うのだった。
そんな純也のことをどれだけの人が分かっているというのだろうか? きっと分かっている人などこの世に一人もいないに違いないと思うのだった。
そのせいで、なかなか自分の意見を表に出さないような性格になってしまった。好きな人ができても、
「好きだ」
という勇気がない。
だがら、まわりに気ばかり遣ってしまって、
「自分はおだてに弱いんだ」
ということを言い訳にしていたのだ。
つまり、自分の気の弱さをおだてに弱いということで、隠そうとする。意外とまわりにはすぐにバレてしまうようなことでも平気で行ってしまう。
本当は、
「人と同じことをするのは嫌だ」
と思っているはずなのに、その思いに逆らって、その頃はおだてに弱いということだけを長所だと思うようにして、静かにしていた。
その頃というのは、中学高校時代の頃で、思春期くらいの頃であった。何しろその頃には恥じらいを感じるようになり、
「なぜ、こんなに恥ずかしいという思いになるんだろうか?」
と、それが思春期だということを分かっていなかった。
しかも、身体がムズムズしてきて、下半身に男としての変化が襲ってきても、最初の頃はどうして、こんな反応をするのか分からず、誰にも相談できずに、悩んでいた。
しかし、そんな時に限って、
「悪魔の囁き」
なるものがあるもので、
「お前が勃起するのは、男だからさ、女を見ると、ムラムラ来るだろうが。それは悪いことじゃないのさ。我慢なんかすることはないんだ。抜きたくなりゃ、抜きゃあいいんだ」
と囁くのだ。
さすがに犯罪を誘発するような言い方をするわけではない、とにかく、我慢することはないという。
なるほど、やつらに言われた通り、ムズムズを解消すれば、一時の快楽が襲ってくる。しかし、それはほんの一瞬であった。快感が終わってしまうと、その後には、何とも言えない憔悴感が襲ってくる。
そお思いは一体どこからくるというのか? 抜いてしまったことがまるで悪いことでもしたかのような罪悪感に見舞われる。たった一瞬の快楽のために、その後しばらく感じる罪悪感が残るということは、一度抜いた時に分かったはずなのに、またしてもムズムズしてくると、我慢ができなくなって、抜いてしまい、結局、罪悪感がまたしても襲ってくる。
「二度と、こんな思いはしたくない」
と思っているくせに、同じことを繰り返してしまう自分が怖いくらいだった。
それでも、どうすることもできずに行ってしまうことに自己嫌悪が襲い掛かってくる。
そう思った時、どうすればいいのかを考えた時、
「何か言い訳を考えなければ」
と思うのだ。
罪悪感に見舞われた時、自分を納得させる言い訳を、いかに言い訳ではないかのように、感じさせるかということである。
相手が本人なのに、それを欺こうという考える方が、どれほど矛盾しているというのか、純也は考え込んでしまった。
思春期という言葉を知ったのは、その頃だった。皆言葉くらいは知っているのだろうが、それがどのようなものなのか、詳しく知っている人はどれくらいいるのだろう? 性的な欲求不満がたまってきて、身体は反応し、我慢できなくなって、自慰行為に至ってしまうという状況。さらに、その後に襲ってくる罪悪感を伴った憔悴感を誰もが、いかに考えているのだろう。
確かに、性的なことは、
「しゃべってはいけない」
というタブーとされているが、それだけに思春期の不安定な精神状態に襲い掛かってくる、確実な身体的な変化。
その状態を誰もが乗り越えて大人になるのだ。逆に言えば、
「思春期がなければ、大人になどなれない」
ということで、まるで、昆虫が幼虫からさなぎになり、成虫になるのと似ている気がした。
さなぎを経由しない昆虫もいるが、子供が大人になるには、心身共に大きな変化を迎えることになるのは、定めなのだろう。
ほとんど来たことのなかった合コンでは、思春期の頃のことを思い出していた純也だった。
純也が知り合った佐和子という女性は、二番目の席に控えていたので、きっと四人の中では一番の華だということなのだろう。
他の人たちとの会話の中でも、佐和子は男子が見て、一番話しかけやすいタイプのようであり、特に正面に座っていた同僚の者からすれば、