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少年の覚醒

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 そういう意味で、怖い夢だけを覚えているというのは、その結界も、夢による都合も、両方掌握できる考えとして、覚えている夢がインパクトの強いものであるとすれば、それは、
「見ている本人にとって、怖い夢」
 であるという考えが理屈としては通るものではないかと思うのだった。
 現実で考え事をしている時というのは、彼氏のことだけを考えていればよかった毎日が、どれほど楽しかったものなのかということを考えると、今のように、一人孤独な、大海原に放り出されたような気分になっている時は、考えごとをしてしまうと、
「そのことから逃れられないようになるのではないか」
 と思うようになる。
 果てしなく、放射状に延びる線上に、考え事をする範囲も広がっていると思うと、彼氏と二人で共有している世界を想像すること以外の、果てしない想像は、妄想であり、実際に起こりえないことも一緒に考えるレベルの中にいるのだから、
「果てしない」
 という妄想は、とどまるところを知らないものと考えることもできるだろう。
 彼氏と一緒の時の想像は、結構容易なことである。範囲も実に狭いことで、二人の将来を考えるのに、わざわざ悲惨になることを考えるのは、普通に考えればありえない。
 結婚して、将来を見据えるわけではない。もちろん、結婚したいと思う相手と付き合っているわけだから、将来のその先が、結婚後だとすれば、その想像もありなのだろうが、そこには一度壁を超える必要があり、その壁を超えるということが、何を意味するのか、考えないわけにはいかないだろう。
 結婚というものを。
「幸せの有頂天だ」
 と考えるか、
「人生の墓場だ」
 と考えるかは、その時の気持ちの上でのタイミングではないかと思う。
 幸せの有頂天と考えるのは、結婚に対して、まだまだ夢として追いかけている時のことであり、人生の墓場だと考える時というのは、結婚というものが頭の中で大体見えてきて、よりリアルの想像できるようになると、その想像は妄想ではないほど、目の前に迫ってきていることなのだろう。
 既視感のようなものもその中にはあり、
「以前にも、同じようなことを考えたことがあったような気がする」
 と感じた時に、思い出すものではないのだろうか。
 この既視感というものを、
「デジャブ」
 だと考えるのだとすれば、きっと発想としては、
「前に夢に出てきたものではないか?」
 と考えることであろう。
 確かに、楽しい夢というのは、夢の途中で終わってしまい、楽しい夢というのをなんとなく理解はしているは、どんな夢だったのかは覚えていない。いや、覚えていないわけではなく、思い出そうとしても、どうしても思い出せないというものであるということを、気持ち悪い中で悶々とした意識が残っているような、そんな感覚を思い出させるものだったのだ。
 夢を思い出そうとする時というのは、いつも限られた感覚の中で、しかも、
「いつも同じような気持ちになっている時ではないか?」
 と思う時であった。
 楽しい記憶というのが、そもそも限られた狭い範囲でのことであれば、その理屈はかなうというものだ。
 結婚のように、楽しいことと、怖いと思っていることが両極端であれば、余計に、既視感というデジャブが残っていても、それは無理のないことのように思えてならないのであった。

                  モデル校

 聖羅は、それからしばらくは、自分との葛藤の中で教師という仕事を続けていた。
 仕事の内容は、相変わらずであったが、少しでも成長しようと思い、部活の顧問も積極的にこなし、なるべく、生徒との時間を取ろうと思うようになっていた。
 部活の顧問としては、バスケットボール部の女子の方を受け持つことになった。
 高校時代、バスケットをやっていたので、ちょうど、女子バスケの顧問の先生が産休を取るということで、空いてしまった穴を、聖羅が埋めることになったのだ。
 この学校は、小学校から、部活制度を取り入れていて、大会に出場というわけにはいかないが、放課後の一時間だけ、部活のような形でできるような配慮があった。
 これは、自治体としても、モデルケースとして、
「もし、この試みがうまくいけば、他の学校でもできるようになるかも知れないですよね。そのうちに全国に広がれば、大会も小学生からできるようになりますからね」
 ということであった。
 この部活に対しては、賛否両論があった。
「子供の発展途上の肉体には、まだ部活のような運動は時期尚早だ」
 という意見もあれば、
「今のうちから、身体をならしておけば、成長期において、無理することなく、発育ができるというものだ」
 という意見もある。
 発案者である教頭先生は、
「どちらの意見ももっともだと思いますので、小学校の間は、あくまでも、身体をならすというのが一番の目的で、成績や学校の名誉などという邪推は、この際捨てていただいて、生徒の発育に貢献できるような部活をお願いいたしたい」
 ということを言っていた。
 保護者からも、賛否両論があり、実際に部活を始めるまでは、結構な抵抗があった。
 しかし、教頭の考えは強く、しかも、しっかりと下準備をしてのことだったので、反対意見は、次第に薄れていった。
「あくまでも、お試し期間という感覚でよろしいですね?」
 という保護者の念を押した言い方に、
「ええ、そう思っていただいて結構です。我々の方も、中学、高校のように、先生が顧問となって、指導していくことにします。あくまでも部活というよりも、教育の一環ということですね」
 と教頭がいうと、
「最近、ビルやマンションがたくさん建ってきているので、子供が遊ぶ場所も減ってきているんですよ。変なところで遊ばせるのも危険だし、学校の方で、ちゃんと責任をもって見ていただけるのであれば、それに越したことはありません」
 ということで、保護者の方の反対も少なくなっていった。
「生徒の安全を守るのが一番で、その次が教育としての部活だということは、我々も心得るようにいたします」
 と教頭がいうと、
「ええ、まずその前提が一番大切ですからね。中学に入ると、年数的に少ないし、三年生になると、高校受験のために、部活というわけにもいかなくなる。高校に入れば、大学を目指す人は一年生から、大学受験を目指して勉強しますからね。本当に部活をできるというのは、限られた時間だけなんですよ」
 と、保護者の代表がいう。
 そんなこんなで、部活を行うことは、保護者からも承認を得た。
 ただ、部活を行う上で、いろいろな規則も設けた。
 まず、部活は強制ではないということ。やりたい人がやりたい部に入部するという形を取り、辞めたい時は、その自由を誰も束縛はできないというもの。つまりは、参加も脱退も自由だということである。
 団体競技などでは、簡単に脱退を許すと、他の部員に迷惑が掛かるということで難色を示した人もいたが、
「別に大会への出場が掛かっていて、人数が絶対に必要というわけではない。参加退会は自由だというのだから、部員の募集も別に妨げるということもない。部員が足りなければ募集するのも、自由だ」
作品名:少年の覚醒 作家名:森本晃次