小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

少年の覚醒

INDEX|6ページ/25ページ|

次のページ前のページ
 

 もちろん、続けていくことでどんな危険なことがあるのかということを、具体的に分かっているわけではない。誰にも予見できることではないと思うのだが、もし、何かが起こって、後になって、
「やっぱりあの時、辞めておけばいいんだわ」
 と思ったとしても、それはすべてが結果論でしかない。
 だからこそ、何かが起こってから、自分の中で精神的に逃げの状態になった時、言い訳を考えたとして、その考えたことを、
「結果論でしかないが」
 と思うことができれば、理由を結果論として、考えることもできるだろう。
 一時的な逃げでしかなくても、それによって、少しだけであっても、精神的に気が楽になれるのであれば、それはそれで無理なことではないと思えるのだった。
 彼氏を別れたことで、孤独感を味わっている聖羅だったが、考え事をすることが多くなってしまった。
 どんなことを考えるのか、それは今まで彼氏がいた時よりも、その範囲はかなり増えてしまった。
 彼氏といる時というのは、
「この人とこれから歩む将来のことが前提」
 という意識が強く、まずは、この前提からでしか考えられなかった。
 というよりも、いいことが大前提なのだから、悪い発想に行きつくはずがない。そういう飯豊も、悪い発想がないだけでも、考えられる範囲は実に狭いことであろう。
 しかし、その彼氏はすでにおらず。今は孤独と憔悴完に苛まれている毎日、何を考えるかはその時の精神状態によることが多い。
 実際には、悪いことの方が多い。今まで悪いことを考えてこなかった分、
「こんなにも、一人で考えていると、怖く感じたり、悪いことを考えてしまう思いがたくさんあろうとは思ってもみなかった」
 という思いが頭をよぎるのだ。
 余計なことを考えてみたり、好きな人のことをどのように想像していたのか、当事者だった自分は、そのまわりにバリケードを貼っていて、見たくないものを敢えて見ようとしなかったことを示しているのだった。
 それでも、まわりを見てみると、
「私は、自分で勝手にバリケードなのか、結界なのか分からないけど、表から見れないように、そして表が見えないようにしていたとは」
 と考えていた。
 バリケードというのは、まわりから見ようとした時、中が見せない場合のことであり、結界というのは、中にいる自分が表を見ようとした時に、見えない状態になっている様子をいうのだと考えるようになったのは、実際に、不幸が襲ってきた時からだったので、その時は、バリケードと結界の違いを自分で理解しようとは思っていなかったのだった。
 一人、孤独に考え事をしている時、
「夢を見ているのというのは、こういう時に感じるものではないだろうか?」
 と感じるようになっていた。
 孤独の中で、考え事をしていると、何がきっかけで、その時に考えていることを考えようと思ったのか分からない。
 彼氏がいる時は、彼氏のことを考えるから、考え事をしているのであって、孤独な時というのは、
「気づいたら、考え事をしていた」
 というほど、無意識なものだったのだ。
 無意識に考え事をしていると、ふと我に返って、
「私、今何か考え事をしてしまっていたんだ」
 と感じる。
 しかし、どのようなことを考え、想像していたのかというのは、我に返った時の反動で、忘れてしまっていることが多い。
 それは、
「目が覚めるにしたがって、夢を見ていたという意識があるんだけど、その内容を忘れてしまったようだ」
 という感覚と似ているのではないだろうか。
 夢というものは、目が覚めるにしたがって、その内容を忘れてしまうのは、それだけ、
「夢と現実の世界の間に結界のようなものがあり、通り越してしまうと、結界の先を見ることも思い出すこともできないのではないか」
 と感じているからではないかと思うのだった。
 それは、現実世界において、起きていて、考え事をしている時と同じような気がする。だから、その間に結界が存在すると考えるのも、当たり前のことであって、夢と現実、そして現実世界の間で孤独に考え事をしている時との違いをどのように解釈をするかと考えた時、結界というものを無視することはできないのであろう。
 一人孤独でいると、考えることは無限にありそうだ。
 夢だって、一人で見るものだ。
 ただ、夢というものを、
「誰かと共有しているものだ」
 と感じている聖羅にとっては、この考え方は、明らかに矛盾しているものであった。
 しかし、夢を共有しているという考え方だって、いつも夢を見ていたとしても、毎回共有しているわけではない。ただ、共有している人が、必ずしも自分の知っている人だとは限らないことだ。
 だから、夢を無意識に見ていると、知らない人の夢に入り込んでいたとしても、そのことに気づくはずもない。
 絶えず夢の中で、夢を見ているという意識もなく、自分を分かっていないのだとすれば、それは目が覚めるにしたがって、忘れてしまうものだという考えこそ、矛盾のないものだと言えるのではないだろうか。
 そんなことを考えていると、
「夢というのは、本当は眠りに就いた時、いつも必ず見ているものではないか?」
 と感じたのだ。
 しかし、覚えている夢というのは、すべてではない。むしろ、少ないくらいだ。
 よくよく考えてみると、目が覚めてから覚えている夢というのは、怖い夢ばかりではないか。
 それを思うと、
「怖い夢以外、忘れてしまったのか、それとも、実際に見ているわけではないのか?」
 と考えてしまうが、目が覚めた時、
「何か夢を見ていたような気がするんだけど、忘れてしまった」
 と感じることは確かにあった。
 しかも、
「今見ていたのが、夢だとすれば、その夢の中で確かに、夢なら覚めないでくれという意識を持ったような気がする」
 と感じたのを覚えている。
 つまりは、怖い夢ではなく、むしろもう一度見ていたいというほど、楽しい夢であったり、文字通り、そのまま見続けていきたいと思ったことは確かなことのようだった。
 しかし、夢というのは、実に都合よくできているもので、
「夢とは、絶対に覚めないものはない」
 ということである。
 夢から覚めなければ、永遠に夢の世界に入り込んでしまって、
「夢から覚めると死んでいた」
 などという、笑えない笑い話のようではないか。
 それを考えた時、思い出されるのは、京都のどこかの観光地に、湧き水のようなものがあり、
「三杯飲めば、死ぬまで生きられます」
 と言って笑わせている、観光案内の人の話が思い出されたのだった。
 夢の話であるが、
 見ていた夢を、永遠に見ることができないのだとすれば、
「夢というのは、必ず、中途半端なところで終わってしまうという宿命のようなものを持っている」
 と言えるのではないだろうか。
 だから、完結していないものを、結界のある現実世界に、意識として見ているという理屈を証明することは難しいだろう。
 むしろ、
「夢というのは都合のいいものだ」
 と考える方が理屈にかなっているし、他の発想と連結する場合も説明がつきそうな気がするのだ。
作品名:少年の覚醒 作家名:森本晃次