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少年の覚醒

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 卒業式の終了した後に、
「お礼参り」
 と言って、先生をボコボコにするなどということが普通に行われていた時代だ。
 警察が出動することも少なくなく、まるで安保闘争のビデオを見ているような感じだった。
 今でこそ、そんな団結を旗印にするようなことは起こらなかったが、当時は社会、問題だった。
「教育崩壊」
 と呼ばれるのがどの時代にあったのかは分からないが、この時代は明らかに、教育は崩壊していただろう。
 昭和のそんな時代を知っている人は今はもうほとんどいないかも知れないが、平成に入ってからの状態は、知っている人も多いだろう。
 昔からこの問題はあったのだが、表にあまり出ることはなかった。それは、平成になってから、問題が大きくなったからである。
 つまりは、
「質が変わってきた」
 ということである。
 この問題は何かというと、いわゆる、
「いじめ問題」
 であり、今にも続いているものだ。
 その問題が、
「引きこもりの問題」
 に繋がっている。
 引きこもりは子供に限らず、大人にもいる。そんな時代になってきたのだった。
 ただ、引きこもりだからと言って、彼らに才能がないだとか、差別的な待遇を受けるいわれはないと言えよう。実際に、引きこもりであったり自閉症と診断された人でも、
「ただ、対人関係が苦手なだけで、実は才能に満ち溢れていたり、常人にはない奇抜な発想を持っていたりする場合が多い」
 と言われている。
 天才肌と言われる人たちで、
「アスペルガー症候群」
 とも呼ばれたりもする。
 実際に、天才と言われた有名な発明家であったり、今に名を遺す偉人となった人たちの中には、子供の頃、対人関係が苦手で、特殊な教育を受ける羽目にあった人たちも結構いたりする。
「天才と変わり者(今では差別用語になっていて言えない)ことは紙一重」
 と言われるが、まさにその通りだ。
 いろいろな原因が考えられるが、メディアの発達により、本を読まなくなったり、パソコンやネットの普及で、何でも簡単に調べることもできたりするのも大きな影響だろう。
 字を書かなくなったせいで、字を覚えない、手で書かなくなったことで、指の退化などがあるのではないだろうか。
 もっとも、これは作者の私見でしかないが、理由は他にもいろいろありそうだ。
 そんな中で、聖羅先生は、最初に教師を志した気持ちとしては、子供の頃に、勉強が好きだったというのが一番の理由であるが、勉強ができるようになると、それまで自分になかった自信が生まれてきた。
 自信が生まれてくると、何でもうまくいくようになったのだ。もちろん、ただの偶然かも知れないが、実際にうまくいくことが多いと、
「せっかく勉強が好きなんだから、自分でも勉強しながら、子供に勉強を教えるという仕事って、自分の天性かも知れない」
 と感じたのだ。
 自分の好きなことが役に立つというのは、実にやりがいのあることで、自分と同じような思いのできる生徒をたくさん作りたい」
 という思いが強かったのだ。
 しかし、高校から大学に進む頃になって、自分の考え方が、中途半端な気がしてきた。
「自分勝手な考えではないか?」
 と思うようになったのだが、それが、押しつけのよういも感じられた。
 一度は教師を志すのはやめようかとも思ったが、ここまできての進路変更は、自分でもリスクのあることだと思い、思いとどまった。
 この不況で就職難の時代に、せっかくここまで勉強したことを棒に振るというのももったいない。せっかくなので、資格までは取っておいてもいいと思ったのだ。
 だが、実際に教育時修正となって、学校に赴任すると、自分が思い描いていた学校とはかなり違っていた。
 確かに、苛めなどが蔓延っているのは、印象として分かるのだが、表に出てきているわけではない。
 苛める方がうまくやっているのか、それとも、苛められる側が、バレないようにしているのか、ハッキリとは分からなかった。
 自分たちの子供の頃も、苛めはあった。あの時お似たようなものだったが、自分が子供の立場から見ていたので、苛めがあっていることは分かっていて、先生の立場から見るよりもハッキリとしていた。目線が同じだからであろう。
 それを思うと、小学生の頃に何も言えないかった自分と、今、先生として何も言えないという立場と、分かる気はした。
 子供お頃に、
「どうして先生は助けてくれないのだろう?」
 と思っていたが、
「なるほど、このように目線が違っていれば、見えてくるものも見えてこないということか」
 先生は、
「知っていて黙っているわけではなく、分かっていなかっただけなのかも知れないな」
 とも感じた。
 だが、あの頃の先生と今の先生とでは、どこかが違っているような気がする。苛めも進化しているのだろうが、隠し方もうまくなっているのかも知れない。
 ただ、もう一つ言えることは、
「大人の方も、見て見ぬふりをすることが身についているのかも知れない
 と考える。
 なぜなら、自分たちが小さい頃の先生というと、先生たちの子供の頃というと、本当に苛めというのが出始めた頃で、社会問題になっていたとしても、まだまだ何も分かっていなかった時期だろう。
 今では、コンプライアンスも煩く言われ、先生が生徒にできる行為もかなり制限されてきた。
 躾と称して子供に手を挙げると、暴力と言われ、教育と称しての指導も行き過ぎると、
「体罰」
 と言われるのだ。
 あの頃はそこまではなかった。きっと、苛めも表に出てきていたので、苛めた生徒に対して先生が起こったり、態度の悪さに業を煮やして手でも挙げてしまうと、そこからは、体罰になるのだ。
 PTAは。今も昔も強いもので、
「教育委員会に訴える」
 となると、先生も弱い立場だった。
 先生の方にも親の方にもそれぞれに言い分がある。
「子供の躾は、親の責任であって、学校には責任はない」
 と親が言えば、親の方も、
「高い学費を払っているんだから、躾も教育の一環ですよ」
 という言い争いになってしまう。
 しかし、これは永遠に交わることのない平行線であり、この話題になると、そちらもそれぞれの言い分から、引き下がることはない。なぜ、平行線かというと、ここで話が膨らんでくると、本来の主旨から離れていってしまうので、平行線どころが、違う方向に行ってしまうからだった。
 学校と保護者は、そんな争いの繰り返しであり、先生は保護者を、保護者は先生を、
「天敵」
 として見てしまうことで、話ができる状態になるはずもない。
 一つ言えることは、保護者の方は、その学校に預けているのは、小学校でも六年間、中学高校ともなると、三年しかないではないか。そういう意味では、保護者も先生も、相手にどうしてあからさまにイラつくかが分かるというも小田。
 保護者とすれば、
「先生は、在学中だけ面倒を見ればいいかも知れないけど、こっちは、もっと先までこの子を見なければいけない」
 という多いがあり、逆に先生側とすれば、
作品名:少年の覚醒 作家名:森本晃次