少年の覚醒
「それはしょうがないわよ。大学に入学した時点で、卒業後の明確なビジョンが見えている人なんて、ほとんどいないと思うわ。麦僊と将来について考えていて、大学在学中に、進路を変えてしまう人だって結構いるでしょう? 医者や看護婦、弁護士などの法曹界を目指す人などは、国家試験があるので、そう簡単に道を変えることはできないだろうけど、それ以外であれば、進む道を変えようとする人も、結構いるのではなでしょうか?」
と、由衣が言うのだった。
「私は、高校時代から、漠然と教師になりたいと思っていて。最初は中学か高校がいいと思っていたのよ。一つの科目を専門に勉強して。その科目の先生として赴任すればいいからですね。小学生はそうはいかない。高学年になってからの芸術的な科目以外は、ほとんどの授業を担任がすべて教えるということで、実は、小学校の先生が一番大変なのではないかと思うようになったんです」
と、聖羅は言った。
「私は、高校の先生がいいかな? 逆に私は一つの教科に特化するような形を取りたいのよ」
という由衣に対して、
「その学問っていうのは何なの?」
と聞かれて、
「私は、歴史の研究をしてみたいの。特に近代史とか、面白いと思うのよ」
というではないか。
女性は歴史などの科目は敬遠する。聖羅は嫌いではなかったが、まわりの女性のほとんどは歴史が嫌いだといい、なぜなのかと聞いても、まともに答えられる人はいなかった。それだけ漠然とはしているが、歴史が大嫌いだというのは、女性特有の何かが、歴史という学問と接することのないものがあるのかも知れない。
「歴史って、女性は皆敬遠するのにね」
と聖羅がいうと、
「そうなのよ。皆理由も分からず敬遠しているみたいなんだけど、私もどうして皆女性が敬遠するのか分からないの、暗記科目だと思っているからなのかしらね?」
と由衣がいうと、
「でも、女性の中にも、歴史に対して異常なくらい興味を持つ人だっていますよね。最近では、歴女なんて言葉があるくらい、歴史に興味を持っている女性もいるくらいですからね」
「そうそう、両極端なんですよ。でも、さっきの暗記科目という感覚なんだけど、昔ならいざ知らず、ゆとり世代で考えると、歴史は決して暗記物ではないはずだと思うんだけど、どうなんでしょうね?」
「それが問題なんじゃないのかな?」
と聖羅が言った、
「どういうこと?」
「暗記物として覚えさせられてきた世代の人たちが、今度はゆとり世代に教師として教えるわけでしょう? 習ってきたことと違う教育をしなければならない。今までの教師は自分が習ってきたことを思い出しながら教えていたと思うんだけど、今度はまったく違った教育方針、したがって、先生がよく分かっていないところで、生徒に教えるわけなので、そりゃあ、まともな教育なんてできないわよね。先生が戸惑っているんだから、生徒ができるわけはない。当然、歴史が分からないということになり、嫌いになるというのも、理解できないわけではないかな?」
というのだった。
「聖羅さんは、今そのことを感じているのね。ひょっとすると、この話題にならなければ、ずっと、疑問のままだったかも知れないわね」
と、由衣に言われ、
「うん、それは間違いないと思うわ。私も今ここで由衣に話をしている自分に酔っているくらいの感覚ですもん」
と、聖羅は答えた。
「どちらにしても、カリキュラムが、コロコロ変わるというのは困ったものよね。きっとそのうちに、ゆとり世代というのが問題になって、また以前のようになるんだろうって思うわ」
という由衣の意見を聞いて、
「うん、私もそう思うわ。何にしても、行き過ぎると反動というものがあるから、元に戻ろうとする作用が働くからね」
と聖羅は言った。
「今、教育現場では、生徒の学力低下が問題になっているみたい。決められたカリキュラムが、今のゆとり教育の時間だけでは、どうしようもないというところのようなの。だから、昔のような時間でなければ、教えきれないということになるんだろうけど、でも、学校の週休二日制をまた、以前のように、土曜日を半ドンにするという考え方に戻るのかしらね?」
と由衣がいう。
「でもね。教育の時間だけが問題じゃないと思うのよ。これは昔からの問題でもあるんだけど、レベルがバラバラのクラスにしてしまうと、結局、どこに合わせて教えるかということが一つの問題になると思うのね。成績のいい生徒に合わせるのか、それとも、落ちこぼれに合わせるのかね」
と聖羅がいうと、
「成績のいい人に合わせて、どんどん先に進んでしまうと、分からない生徒はどんどん落ちこぼれていく。かと言って、成績の悪い人に合わせると、成績のいい生徒は、学校に来る意味がないくらいに学校では、まるでストレスをためにきているようになるんじゃないかしら?」
と由衣が言った。
「昔の学園ドラマとかでは、成績のいい生徒に合わせて、落ちこぼれを作って、それが不良化することを懸念した、いわゆる「青春学園もの」と言われる番組があり、海に向かって、バカヤローと叫んでみたり、田舎の駅のホームで、ラグビーボールをパスしあいながら、ホームを走ると言った。今だったら、滑稽にしか見えないことを、真剣に演じていたそんな青春学園ものだからこそ、落ちこぼれを助けるというドラマができたんだよね。今はどうなんだろう? 逆に成績のいい人や頭の切れる人を置き去りにして、彼らの才能を殺してしまったような教育現場になっているわけなので、ここまで時代が変わってしまったということなのかしらね?」
と、聖羅が言った。
聖羅は、どうやら、昔のテレビにも詳しいようで、漠然としてとは言っているが、ひょっとすると、ビデオなどで、かつての先生ものの作品は結構見ているのかも知れない。
「腐ったミカンの方程式」
という言葉が生まれた、あの学園ドラマだったり、破天荒な先生が暴れまわるような学園ものであったり、逆に今の時代は先生にスポットが当たる番組はほとんどなく、生徒が主人公の話が多く、それらは学園ものではなく、恋愛だったり、生徒同士の友情だったりする作品が多いと思われる。
それらのドラマについての意見を由衣に話すと、
「なるほど、興味深いお話ね。ドラマというのは、どうしても、視聴率の問題だったり、スポンサーの意向に沿うものであったりと、何かに偏るということはしょうがないところでもあるけど、少なくとも、その時代に逆らうにしても、共感するにしても、時代背景を無視することはできないものよね。そう考えると、時代によって、ドラマも変わってくると考えると、ドラマから時代が見えてくるのかも知れないわ。これこそ、ドラマの歴史と言えるのではないでしょうか」
と、由衣はそう答えた。
「私はまだ、教育というものをよく分かっていないからなのかしら、どうしても漠然と教師をやりたいと思っただけで、そう思ったことで、昔のドラマを見てしまうというのは、ベタ中のベタと言ってもいいのかしらね? 自分でも滑稽な感じがするのよね」
と聖羅は言った。