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孤独という頂点

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 それを言えば、確かに家族を守るために、結婚相手を選別するのは当然だろう。しかし、時代は民主主義の時代。恋愛も結婚も自由なのだ、ただ、法律的能力者でなければ、自分勝手に決められないというのは存在するが、それは本人やまわりの人の利益を守るためである。
 守らなければいけないものを守るのは当然のことであり。そこに少々の理不尽さがあっても、誰かが犠牲になることは分かっているとすれば、それが自分だったということである。
 ただ、そんな理屈が、結婚で頭の凝り固まった若者に分かるはずもない。
 強行する方は、しょうがかいと思ってしていることなのであろう。
 そんなことを考えていると、結婚というものがどういうものなのか、考えないわけにもいかなかった。
「結婚は、人生の墓場だ」
 とよく言われるが、結婚した人を見る限り、幸せと自信に満ち溢れている。
 どのあたりから、足を踏み外すのであろうか?
 実際に結婚してみると、楽しいことが多かった。それは、二人の交際期間が中途半端に長かったことが大きかったのかも知れない。
 三年、いや、四年が経っていた。
「五年もつきあっていると、長い春だと言われかねない」
 と言われたことがあった。
 だから自分でも、五年以内に結婚は考えないといけないと感じていた。
 そんなプレッシャーがある中、どうしてお、恭子の呪縛がぬぐいされない。付き合い始めた時は、恭子の呪縛は、彼女自身だったが、彼女の影が次第に消えていくと、まるで光視症のようにまとわりついてくるのは、彼女の存在ではなく、結婚できなかったことへの呪縛だった。
 だが、その呪縛は時間が経つにつれて、問題が自分にあったことを示しているようだった。
「結婚という言葉が呪縛になって襲い掛かる。しかも、相手には、以前結婚を考えたが、あきらめた。しかも、今はもうこの世にはいないという存在の人間がいる。俺にはとても太刀打ちできない」
 という思いが強く、何をどうしていいのかが思いつかないのだ。
 見えない敵とでもいえばいいのか、その人の呪縛を考えていると、次第に、別れが近いことを悟ったような気がする。自分の中で、
「このまま、苦しまずに別れられることができれば、それが一番いいのかもしれないな」
 とも感じていたが、それはすぐに打ち消した。
 なぜなら、
「このまま別れてしまうと、絶対に後悔するに決まっている」
 という思いが頭をもたげたからだった。
 どんなことがあっても、別れると分かっていても、
「自分が抗わなければ、自分が自分ではなくなるんだ」
 という思いである。
 そのために、ダメだと分かっていることに突進していった。まるで、玉砕か、特攻隊のようではないか?
 それを思うと、玉砕も特攻隊も、あまりいいイメージで語られていないが、それをしなかったら? と考えると怖い気もする。
「生きて虜囚の辱めを受けず」
 という言葉を、戦陣訓として聞くことがあるだろう。
 これは、
「生き残って捕虜になり、辱めを受けるくらいなら、潔く自決を選ぶべし」
 ということの教えであるが、それは、戦時中だけのことではなく、昔は戦国時代であったり、日露戦争などの時期にも言われていたことである。
 近代戦争においては、捕虜というものに対して、
「ハーグ陸戦協定」
 において、
「捕虜の人権」
 を保証し、虐待を許さないという条約があるが、実際に戦争に突入するとそうも言っていられない。
 諜報を用いた特務機関のようなものがあり、スパイが横行していた李する可能性があれば、捕虜が、そのスパイであれば、手厚く保護していては、自分たちの身が危ないということもあり、捕虜であっても、緊張して当たらないといけない場合もある。
 もし変な噂でも流れていれば、捕虜を虐殺することもあっただろう。そんな話が日本政府にも流れていて、
「捕虜になると、相手は鬼畜同様となり、容赦はしない」
 と言われていた。
 そういう意味で、敵国を、
「鬼畜米英」
 などと言って、
「敵国は、鬼畜生と同じだ」
 ということを国民に信じ込ませるのは、捕虜になった時、死をためらわなくするためだったと言っても過言ではないだろう。
 玉砕というのも、同じ解釈だ。下手に集団で投降すれば、集団虐殺もされかねないということで、
「皆で死ねば怖くない」
 という観点が、頭の中に満ち溢れていたのだろう。
 それが戦争であり、洗脳なのだ。
 洋二は自分の中の呪縛が取れたことを感じたのが、梨花が背中を押してくれた時だったというのも皮肉なことだ。
 梨花にはある程度分かっていたのかも知れない。
 二人は、それから程なくして結婚し、披露宴なしでの結婚であったが、それは家族すべても、望んでくれていたということもあり、そのあたりはよかったのかも知れない。
 そもそも、自分の父親は、他人に気を遣うことの多い人で、それが自分にも遺伝したように思えた。子供の頃、皆が泊まるのに、
「帰ってこい」
 と言ったのは、相手の家庭の事情を思い図ってのことだということが、やっと分かったのだ。
 だからと言って、許すというわけではないが……。
 しかし、もうあの呪縛からは消してしまいたいと思っているので、いい方に考えようと思ったのだった。

              妻への葛藤

 結婚してから、新婚生活というのは、どれくらいまでをいうのだろうか? 二人はラブラブの家庭を築ければ、何年でも新婚生活であってもいいと思っていた。
 梨花の方はどう考えているのか分からないが、洋二の方としては、
「三年くらいが妥当ではないかな?」
 と思っていた。
 そういえば、昭和の頃のデュエット曲に、
「三年目の浮気」
 というのがあったっけ、
「三年目の浮気くらい大目にみろ」
 という、そんな歌詞だったような気がした。
 ということは、
「結婚して三年も経てば浮気もするくらいになる」
 ということなのか、あるいは、
「三年も経てば、いいこと悪いこと、それぞれに、変化が出てくる時期だ」
 ということなのかというのを考えさせられる。
 まあ、まだ新婚の今考えることではないので、とりあえず、新婚生活を謳歌するのが一番だった。
 それぞれの家庭にもちょくちょく顔を出していた。
 特に、奥さんの実家にはよく顔を出していたのだが、相手のお父さんが、洋二のことを気に入ってくれていて、それが嬉しくて、
「ちょっと実家に行ってくる」
 という妻にくっついて、
「じゃあ、俺も行こう。送って行ってやるよ」
 と送り迎えを餌に、自分もノコノコついていったのだった。
 実際に居心地はよかった。義母が、おいしいものをいつも用意してくれている。梨花が学生の頃には、料理教室に通っていたというだけあって、料理の腕前はすごいものだった。それを思うと、実に嬉しく感じ、
「お義母さんの料理は日本一ですね」
 と、笑顔でお世辞を言ったが、嫌味に聞こえないのか、本当に喜んでいる義母が、羨ましくもあった。
「俺は、こんな家庭の暖かさを夢見ていたのかも知れないな。梨花と結婚できたのは、本当に幸せだ」
 と感じていた。
作品名:孤独という頂点 作家名:森本晃次