小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

正夢と夢の共有

INDEX|2ページ/25ページ|

次のページ前のページ
 

 という意識があるので、夢を見ている自分が大人だという意識があるのだが、映像として見ていると出てくる主人公の男の子が、小さい頃の自分であることに気づくのだ。
「夢を見ている自分と、夢の主人公である自分。夢の中の自分を、もう一人の自分として意識はしていない」
 つまりは、夢の中の主人公は、夢を見ている自分とは別人なのだった。
 あれは大学を卒業して、就職も決まり、新入社員として働き始めた初夏の頃だっただろうか?
 ちょうど大学時代の夢を見たことがあった、
 成績もそんなによくなくて、本来なら、三年生が終わる頃までに、ある程度の単位を修得し、単位数が一桁残すくらいで何とかなると言われていたのに、実際に三年生が終わった時点で、三十単位くらいを残してしまっていた。
「お前大丈夫か?」
 と言われていて、就職活動をしながら、学校で抗議にも出席しなければならなかった。
 就職自体も、夏が終わっても内定が一つももらえない状態だった。
 ただ、一つの会社に内定がもらえると、いくつかの会社からも内定がもらえて、とりあえず就職活動は一段落した。
 しかし、問題は卒業である。
「就職も決まったのに、卒業できなくて、留年でもすれば、当然内定は取り消され、再度就職活動をしなければいけなくなる。今度は就職活動にはまったく自信がない」
 つまりは、このまま四年生で卒業しないと先はないことは分かっていた。
 それでも何とか抗議への出席も真面目だったこともあって、五十単位くらいを取得して卒業することができた。
 しかし、さすがにこの時のトラウマはすごかったのだろう。それからというもの、何十年経っても、その時の思いを夢に見たりするのだった。
 卒業してすぐの初夏に見た夢はまさにそんな夢だった。
 大学の図書館で休憩Wしていたのだが、夢を見ている自分は意識として、自分が卒業して、もう学生ではないという意識はあった。
 しかし、友達が背広を着てキャンパスを歩いているのを見ると、自分がラフな服装であることに気づく。
「やあ、まだ学生やっているのか?」
 と言われて、
「えっ」
 と思わず何が起こっているのか分からなかったが、どうやら、友達は卒業し、就職後、社会人として大学のキャンパスを歩いているようだった。
 自分も同じはずだと思うのに、明らかに友達の態度は、
「上から目線」
 であった。
 本来なら、
「俺だって社会人だ」
 と言って、苦笑し返すのだろうが、どうしてもできなかった。
「ああ、やっぱり、俺はまだ学生だったんだ」
 と感じさせられた。
 就職活動には成功したのに、卒業できずに、大学にいる。卒業したと思っていたのは夢だったんだと勘違いをしている意識がマヒしてしまっていたのだろう。
 本当は卒業しているのに、自らが認めることができない。つまりは、この夢は潜在意識の中でも、トラウマという意識が見せているもので、
「こんな夢ほど、忘れることはないんだ」
 と思わせたのだ。
 ということは、トラウマというのは潜在意識ということになるのだろうか?
 それとも、夢を見る原因は潜在意識だけではなく、トラウマなどの、意識として頭の中に貼り付いているものが見せるということもあるのかも知れない。
 大学というところと、卒業して社会人になるというのは、二年生の頃から意識としてはあった。
 しかし、これだけ大学生活が楽しいのに、いきなり就職して、社会人になるということは、
「天国から地獄に落とされるようなものだ」
 という意識があった。
 だからこそ、
「大学時代というのは、後で後悔しないように遊んでおかなければいけない」
 と感じていた。
 しかし、本当は、
「アリとキリギリス」
 の話のように、夏場に冬に備えて、せっせと働いて、食料を蓄えておかなければいけない。
 それが大学時代のはずなのに、完全に、キリギリスを演じてしまっていたのだった。
「分かっていたはずなのに」
 と、後悔しても、もう後の祭りだった。
 そんな大学時代を過ごしている時、ある意味、卒業も危なく、就職も微妙だったことは、幸いだったと言えるかも知れない。
 就職も卒業もうまく行っていれば、気分的には自分でも意味の分からない危惧に見舞われていたかも知れないからだ。
 そんな心境も、夢に出てきたのかも知れない。
 そもそも、就職した後で大学時代の夢を見るというのは、懐かしいというよりも、どこか現実逃避だったのではないだろうか。就職した会社で、いわゆる五月病にでも罹ったかのような感覚があったのだとすれば、大学が夢に出てくるのは、致し方のないことなのかも知れない。
 しかし、大学時代というのを夢に見たとしても、直近の思い出とすれば、
「就職活動と卒業のための単位取得」
 というどちらもかなり大変なことだった。
 ある意味、大学時代の方が今よりもきつかったと思っているくらいだ。それを思うと、辛い思いをしたことで、今よりきつかったという意識から、
「楽をしたい」
 という意味で、自分が就職しているという意識を持ったまま、大学キャンパスだけを思い浮かべようと思ったのだが、キャンパス内にいると、
「友達は就職していて、自分だけがまだ大学生だ」
 という最悪のイメージを大学時代に持っていたという意識がよみがえってきたのだ。
 それが、
「夢は潜在意識のなせる業」
 ということで、実際に見たい夢とは違った夢になってしまったことをすぐに認めることはできなかったのだ。
 現実と夢との間には、結界のようなものがあり、それを乗り越えないと、ずっと夢の中にいてしまう。
 見ている本人は意識をしていないのだろうが、同じ光景を何度も見ていることもあるだろう。
「それなのに、目が覚める数秒で見ている」
 という感覚が不思議で仕方がなかった。
 だが、覚えている夢であっても、目が覚めるにしたがって、時系列は曖昧になってくる。当然、すべてを覚えているわけではないので、ところどころ忘れているに違いない。どの部分を覚えていて、どの部分を忘れるのかということも、何かの法則が存在していて、
「どの程度の記憶まで許される」
 ということが、決まっているかのように感じるのであった。
 嫌な夢ばかりを覚えているのは、記憶のメカニズムが、怖い夢にしか対応していないからなのかも知れない。
 逆にいい夢にもメカニズムがあったとしても、そこは個人差があるのかも知れないが、自分が覚えられないことに、ショックを感じないように、夢は都合が悪いかのような意識だと思っていたが、実は自分にとって都合よくできているのかも知れない。何しろ、
「夢というものはm潜在意識のなせる業」
 というではないか。
「楽しいことを覚えていないのは、いつまでも夢の世界におぼれていては、現実世界にいつまで経っても戻ることができずに、そのまま夢の世界から抜けられなくなるからなのかも知れない」
 とも思わせられるといってもいいだろう。
 忘れない夢が怖い夢ばかりだといったが、では、
「怖い夢というのは、具体的にどういう夢なのだろう?」
 と考えたことがあった。
 特に感じているのは、
「もう一人の自分が出てくる夢だ」
 というものである。
作品名:正夢と夢の共有 作家名:森本晃次