小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

正夢と夢の共有

INDEX|1ページ/25ページ|

次のページ
 
 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年九月時点のものです。それ以降は未来のお話です。

              夢の話

 読者の皆さんは夢という言葉を聞いて、何を思い浮かべますか?
「自分が目標にしていること。そして、叶えられないかも知れないと思えるような、大それた目標」
 という発想もあれば、
「眠っていて、無意識に見るものであるが、それは、普段から考えていることなんかも知れない」
 という発想もあるのではないだろうか。
 一見、まったく違ったもののように思えるが、共通点はあるのではないだろうかと感じている。
 このお話で最初に感じていただくのは、後者の方であり、
「眠っていて見る夢」
 の話について、まず講釈をたれさせていただこう。
 そもそも、こちらの方が夢と言えば一般的なものではないかと思うのは、それだけ幻想的な発想を抱いているからではないかと思っている。
 前者の方は確かに叶えられなければ、妄想に過ぎないが、叶えるために努力する力は、リアルなものであるのは間違いない。それだけ、
「目指すものと、その到達点が分かっているだけでリアルさが分かるのだから、夢というのは、目標であり、生きていくための力となるものだ」
 と言えるのではないだろうか。
 しかし、眠っていて見る夢は、自分でも見ようと思って見るものでもないし、夢の内容にしても、普段から気にしていることを見る可能性が高いというだけで、まったく初めて見ると思える光景だってあるはずだ。
 時間も空間も超越し、起きていれば、
「絶対にこんなことは不可能だ」
 と思えることを、
「夢で見たのだから」
 ということで、少々のことは許される。
 いや、少々のことでもないかも知れない。なぜなら、夢というものは、
「目が覚めるにしたがって、忘れていくものだ」
 と思えるからだった。
 夢というものは、
「潜在意識のなせる業」
 と言われる通り、普段から気にしていたり、意識していることでないと見ることはないと思われるものだと感じていた。
 確かに、今まで夢で覚えている内容は、普段の自分の生活範囲内であしかありえない。まったく知らない光景が出てきたという記憶はないのだが、果たして、
「それは覚えていないだけなのではないか?」
 と言えるのではないだろうか。
 これは誰かに聞いたのか、本を読んでいて知ったのか、それとも、誰にも聞いてもいないし、媒体からの情報ではないという自分が自力で感じたことなのかハッキリとはしないが、
「夢というのは、目が覚める前の数秒の間に、一瞬にしてみるもののようだ」
 という感覚であり、それは、どんなに長い夢であっても同じことだと言える。
 ただ、
「目が覚める前」
 という歴然とした縛りがあるということで、自力で意識したというよりも、外部からの情報に、自分が同意したことで、最初から自分の意識の中にあったかのような錯覚を覚えたのかも知れない。
 そんな中、夢の中で、
「覚えている夢と覚えていない夢」
 の二種類があるということが分かっているだろうか?
 その共通性について諸君は考えたことがあるだろうか>
 もしあったとすれば、その共通点が何であるか、それは、覚えている夢の共通点を見つけることしかないだろう。
 人によって違っているかも知れないが、作者とすれば、覚えている夢というのは、
「怖い夢」
 というのがそのほとんどであった。
 楽しい夢というのは、目が覚めるにしたがって、
「今日は楽しい夢を見た。だから、このまま記憶から消えないでほしい」
 と感じながら、夢の世界から現実に引き戻される自分を感じているのである。
 しかも、
「この続きを見てみたい」
 と思いながら、夢から覚めることを嫌がっている自分を感じる。
 つまり、楽しい夢というのは、ちょうどいいところで終わってしまい、気持ちの中に中途半端なモヤモヤとした感覚を残すもののようだ。
 一度目が覚めてしまうと、いくら意識していても、同じ夢を見ることはできない。
「ひょっとすると、覚えていないだけで、見ているのかも知れない」
 とも感じたが、どうもそうではないような気がする。
 そう思うと、夢というのは実に本人には都合が悪いもののようで、
「覚えていたいと思う夢は、必ず忘れてしまい、しかも、ちょうどいいところで終わってしまうくせに、もう一度続きを見たいと思ってもみることができないものなんだ」
 という、実に都合が悪いものだと考えると、
「覚えている夢が悪い夢ばかりだ」
 という理屈も、納得がいくというものではないだろうか。
 ただ、だからと言って、本人が夢を見ることに、何かの意味があるという考えは、かなりの信憑性があるのではないかと思える。
 都合の悪いことばかりではあるが、それを起きている間には意識させないという、
「配慮」
 が、夢にはあるのだ。
 これを、配慮と言ってしまっていいのかは難しいところであるが、夢を自分では何とかできない存在だということは紛れもない事実である。
 しかも、分かっていないことも多く、その中で気になっていることとすると、
「夢には、時空と空間という概念がないのではないか?」
 というものである。
 前述のように、
「夢というものは、目が覚める前の数秒で見るもの」
 という考えがあるが、言われてみれば、その感覚も分かる気がする。
 目が覚めていくにしたがって、まだ覚えている夢の感覚をおぼろげに組み立てようとすると、時代背景や時系列だけが意識の中に残っている時があり、そんな時は、
「今回見た夢は、子供の頃の夢だったような気がする」
 というものであり、そう感じた時、結構な確率で、夢を忘れないような気がする。
 それはあくまでも、忘れてかけているところで、引き戻したという感覚が残っている場合に限ってのことなので、実際には、引き戻された感覚が残っていない場合などを考えると、分母はかなり大きなものとなり。その信憑性は限りなくゼロに近いのではないかと思えてくるのは、寂しい気がした。
 だが、間違いなくゼロではない。そう思うと、少なからずの覚えていることに対し、分母の広がりにも限度があるのではないかと思うと、そのうちに、
「夢というものを自分でコントロールできるようになるかも知れない」
 と感じられるのであった。
 しかも、その時に感じた、
「子供の頃」
 という感覚も、意識の中で、
「自分はもう大人になっている」
作品名:正夢と夢の共有 作家名:森本晃次