回帰のターニングポイント
中学生になったいちかからは、そんな話は想像もできなかった。その日も話しかけてきたのはいちかだったし、その最初の言葉を聞いて、
「何を言っているんだ。こいつ」
と感じたのだった。
だが、それだって、いちかという女の子が喋るのが下手で分かっていれば容易に想像のつくことだった。
「私って、本当に最初に話しかけるのが下手なの。だから、そんな私のことを分かってくれる人がいれば、私にとってはありがたい存在で、友達だってできるんじゃないかって思うんですよね」
というのだった。
いちかが、おとなしいというところを想像できないでいた。やはり、最初にいきなり、失礼ではないかと思うような言い方をしてきたからであって、それ以上に、話の展開が読めないところが意表を突かれるが、飽きがこないタイプであるとも言えるのではないだろうか。
「でも、僕と話をしている時はそんな感覚は感じないけどな? まさか、僕を目下のような感覚でいるんじゃない?」
と、カマを掛けるように軽い気持ちでいうと、
「そ、そんなことはないわよ。そんな私、失礼な女ではないわ」
と、明らかに戸惑いながらいうのだった。
それには、さすがに肇もビックリして、
「いや、そんな責めているわけではないんだよ。緊張さえしなければ、君はちゃんと話ができる人なんだから、そんなに委縮することはないと僕は思うんだ」
というと、
「じゃあ、私とお友達になってくれる?」
と、猫が喉を鳴らしているような雰囲気でそういった。
肇もそれを聞いて、思わず喉が鳴った気がしたが、
「ああ、いいよ。俺でよかったら」
と、本当は、嬉しくてたまらないと思っているのを、相手に悟られないように、自分がマウントを取っているかのようにいった。
その時から二人は友達になったのだが、二人の関係はどちらかというと、肇の方に優位性があるようだった。
まわりから見ると、二人とも極度の引っ込み思案な性格なので、
「うまくいくはずもない」
という雰囲気で見ているだろう。
しかし、それはあくまでも、
「二人は恋人なんだ」
という目で見ているからで、二人のお互いに対してのぎこちなさは、友達に対してのものではなく、恋人に対してお互いに気を遣っているかのように見えるのが、その証拠ではないだろうか。
本来であれば、
「友達というと、お互いにどちらが上という関係ではないが、恋人になると、どちらかが主導権を握らないとやっていけるものではない」
と思えるだろう。
そういう意味で、マウントを取っているのが肇だとすれば、
「あの二人は恋人だったらうまくいくかも知れないけど、友達というと、果たしてどうなんだろうな?」
と思っている人も多かっただろう。
二人のうちのどちらかがおかしいのだとすれば、それは肇なのか、いちかなのか、そのことを誰なら分かるというのか、少なくとも、当事者である二人には分かることではないのだろう。
二人は、
「友達になろう」
と言っておきながら、
「いちか」、
「肇さん」
と言いあう仲になっていた。
それでも、二人はしばらくは友達という気持ちだった。その気持ちが強かったのは肇の方で、いちかはそれに従っていたのだ。
元々は、謙虚ないちかに対して、肇が気を遣っているという感じだったが、そのうちに肇がマウントを取れるようになると、肇が主導権を握り、いちかが従うという恰好になってきた。
これが、元々恋人としてうまくいく関係になったということなのだが、ある意味、これが本当の理想の形なのかも知れない。
そのことを最初に悟ったのは、肇の方だった。だからうまくいっているのであって、いちかが先に悟ることになると、肇がマウントを取るというタイミングを逸してしまうだろう。
ずっとそのままいちかに対して肇が気を遣っているという関係になるのであって、それでも、二人の関係は他から見ていると、さほど変わらなく見えるかも知れない。要するに、肇の気の遣い方がすべてを決めるのであって、そこにぎこちなさが生まれれば、二人の関係も長くはなかったことだろう。
肇は相手に気を遣うのが上手い人だが、いちかにはそれができなかった。
ただ、相手に従うということに掛けては長けたところがあるのだが、それは相手の気持ちを悟ることができないので、気の遣い方が分からないというわけではない。いちかにも相手の心を読めるだけの力はあった。
それでも相手に従うことが嫌ではないということは、いちかの中に秘めたる思いがあるのかも知れない。
その思いとは自分の性格的なことであり、自分にM性があって、従っていると思っている。
そして、いちかのような女性は、よほど相手に信頼を寄せていなければ、従うということはなく。
「私の従う相手が、自分を幸せにしてくれる人で、全力で従わなければならない」
と思うようになっていた。
そう思えるようになったのは、思春期を迎えた自分の前にいた人が、肇だったからだということであろう。
もし、他の男性が目の前にいたら、本当にいちかは、その人を好きになることができたのだろうか。
いちかは、誰を好きになるというわけではなく、
「誰かに従っていたい」
という思いを抱いたのかも知れない。
ただ、いちかはその性格を、
「自分がMだからなんだ」
という感覚ではなかったのだろう。
人に従うというのは、自分にとって、
「楽をする」
という思いであった。
楽をしたいとハッキリ思ったわけではないが、肇が自分に対して気を遣ってくれているのが分かっていて、そんな肇に対して、何か悪いという思いがあった。その思いこそが、自分にプレッシャーを与えているようで、しかも、その時、
「友達になってくれる?」
などと言ってしまったことに最初は後悔した。
本当は、
「恋人になってください」
と言いたかったのだが、その言葉がどうしても勇気を持つことができずにいえなかったことで、その照れ隠しもあってか、猫なで声になってしまったことに後悔の念があったのだ。
「あの時に勇気がもう少し持てていたら、もっと早く恋人になれたかも知れない。でも、私はそれを後悔しているわけではない。今の関係を嫌だと思っているわけではない。あの人に従うことは、そもそも私の願っていたことであり、この関係を欲していたからなのかも知れない」
と感じるようになっていた。
いちかは、自分にM性を感じるようになっていたが、肇に対してはノーマルだと思っている。
そして肇の方も、自分が異常性癖だという意識はまったくなく、自分に従ってくれるいちかに対しても、
「フツーの女の子なんだ」
と思うようになっていた。
この時に感じたのは、
「フツー」
という感覚だった。
「普通とどう違うんだろう?」
と考えた。
この時、フツーなどというのは文字に書いたわけではないので、意識をする方が本当はどうかしていると思うのだが、肇は頭の中に、フツーという文字が浮かんできたような気がした。
「決して普通ではないのだ」
と一瞬感じたが、普通とフツーの違いまで感じることはなかった。
ただ、後々意識することになったのだが、その時感じたのは、
作品名:回帰のターニングポイント 作家名:森本晃次