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回帰のターニングポイント

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 ということで、一番企業としてお金が掛かる人件費の削減に着手する会社が増えてきた。
 それまでは、
「二十四時間戦えますか?」
 と言われて、過重労働が当たり前だったのに、バブル崩壊後は、残業をしてはいけないということになった。
 もっとも、拡大した分はすべて手を引いたのだから、雇い入れた人が余ってしまったのも当然で、リストラで人員整理をしても、残業をする必要はないくらいになっていたのだろう。
 その頃というのは、当時小学生だった人は、そろそろ就職活動をする頃であろうか。就職活動をしようにも、なかなかそれまで一定数の求人があったところが求人を控えるようになり、もっとひどいのは、内定が決まってから、首を斬るというものであった。完全な、
「買い手市場」
 である。
 しかし、その数年前というと、まったく逆だった。完全な売り手市場で、就職活動をすればするほど内定がもらえて、しかも、優秀な学生は手放したくないということで、あの手この手で、自分の会社に入ってもらうようにしたものだった。
 入社前に、
「海外研修」
 という名前の、
「観光旅行」
 をさせてもらったり、総務部長が、高級レストランで食事をし、高級ホテルに泊めてもらったりと、上げ膳据え膳でのもてなしだったのだ。
 二十年後に、東京五輪招致に成功し、
「おもてなし」
 などと言った言葉よりも前に、本当の「もてなし」が行われていたのだ。
 だが、入社してから数年で、バブルが弾けてしまった。会社ではリストラの嵐である。
 一番最初に狙われたのは、多くなってしまった中間管理職であった。中途半端な仕事に中途半端に高額収入を得ていると思われたのだろう。
 しかし、彼らの役目は、パイプ役であり、上下の関係の潤滑油としての役割が大きかったはずなのだ。
 それを理解せずに首を切ってしまうと、上層部の考えがまともに部下に伝わらず、仕事も遅延してしまうことも多かっただろう。
 そして次に狙われたのは、バブルの時期に入社してきた、若手社員だった
 ただでさえ、役に立つと考えて、たくさん入社させてきた。
 そして、何しろこの会社を辞めても、バブルの時期なら他の会社が引き抜くくらいに考えていたので、
「嫌な思いまでして、会社にとどまったりなんかしない」
 と思っていたことだろう。
 そのため、会社の方でも、
「いつ人が辞めてもいいように」
 ということで、予定数よりもたくさん採用していたはずだ
「どうせ、新規事業が始まれば、人はたくさんいるんだ」
 と考えてのことだったのだろうが、その人たちがそのまま、まるまる、
「邪魔になった」
 のである。
 それにしても、普通に考えて、実態のない経済が、長持ちするなどと、真剣に誰も疑わずにいたのだろうか?
 今までの歴史を振り返ってみれば、確かに高度成長時期には、所得が倍増したり、GNPが世界最大になったりしたのだが、その間に、ちょこちょことした不況もあったはずだ。
「これだけ好景気であれば、少々の波が来ても、今の日本ならびくともしない」
 とでも思っていたのか?
「好景気の後には不況あり」
 という言葉もあるではないか
 特需があれば、今度は買い渋りがある。消耗品だけで成り立っていれば、また消費もするだろうが、そうもいかない。何しろ実態のないものを回しているのだからである。
 そんな状態でバブルが弾けて、それまで神話とされてきた、
「銀行は絶対に潰れることはない」
 というはずだったものが、銀行が破綻したことで、世間もビックリしたわけである。
 そして、大きいところに吸収合併されることで生き残るしかなくなり、どんどん、企業が合併していく。
 銀行などは、合併した会社の名前をそのまま連ねているので、ただ長いだけの社名になってしまったりしているではないか。四つの銀行が一緒になったりしたが、システム統合がうまくいっていなかったので、致命的なシステム障害を一か月のうちに何度も起こすというお粗末なこともあったりした
「これが、天下の銀行というものか?」
 と、誰もが感じたことだろう。
 そんな昭和の時代を、今走馬灯のように、頭を巡らせている人がいる。医者の石橋肇であるが、彼が医者を目指そうと考えたのは、高度成長が終わってからのことであったが、高度成長の頃、まだ子供だった石橋は、あまり身体が強い方ではなかった。小学生の頃などはしょっちゅう、扁桃腺を腫らせては、いつも高熱を出して、学校を二、三日休んでいた。
 そんなことが、毎年数回あるのだから、本人にとっては結構大変なことだった。
 学校に行く途中にある小児科が馴染みで、いわゆる、
「かかりつけ医」
 であったのだ。

               昭和の町医者

 鈴村医院と呼ばれたその小児科は、本当の町医者という感じだった。令和の今にはそんな病院があるのだろうか?
 と思うようなところで、その病院は自宅の一部を改装した屋敷内に、病院があるのだった。
「鈴村医院」
 と書かれた看板が、まるで、昔の駅のホームにあった、上から吊るす系ではない、まるで立札のような白い木に書かれているような看板を思わせた。
 そして、数段の小さな階段を上ると入り口があり、中に入ると、左前に受付があり、そのとなりが待合室になっていた。
 そこには大きな水槽があり、小さな熱帯魚が泳いでいる。下からブクブクと酸素を送る機会があり、見ていると目が離せなくなるほどだが、本当なら、熱がない時に見たいくらいのものであった。
 さらに、その横に鳥かごがあり、黒い身体をして、喉のあたりがオレンジ色という手乗りくらいの小さな鳥が、そこにはいた。
「こんにちは、きゅーちゃん」
 と言う、何か機械ででも作ったような声が聞こえてくる。
 そう、この鳥は九官鳥だったのだ。
 名前を、
「九ちゃん」
 というらしく、自分で、
「きゅーちゃん」
 と呼んでいた。
 肇少年も、こんにちはと言われると、
「こんにちは」
 と言って返す。
 その声に嬉しそうに鳥かごを行ったり来たりしているように見えるのは、返事を返してくれたということを分かっているからだろう。
 九官鳥は、結構頭がいいらしい。待合室に、熱帯魚と、九官鳥。これらがいるというのは、いかにも小児科という感じだった。
 待合室に熱帯魚というと、いずれ結婚して子供を授かった時、同伴で定期健診に産婦人科の待合室でその光景を見た時、すぐに、鈴村医院の待合室を思い出したほどだった。
 九官鳥は、モノマネをしながら、声もその人に似てくるという、やはり相当賢いものなのではないだろうか。熱帯魚もそうだが、九官鳥も見ていて飽きない。熱があってきつい状態で、待合室で待たされているというのは、とても辛いものだ。
 しかし、九官鳥や熱帯魚に癒してもらっていると、それほど時間を感じずに済むだろう。
それでも、さすがに病院の待合室というのは、後になって思い出すと、思い出しただけで、頭痛がしてくるような感覚で、九官鳥や熱帯魚もその空間にいたわけだから、同じ光景を目の当たりにすれば、頭痛の要因に十分になることであろう、