回帰のターニングポイント
とも言えるものであって、普通通勤手当というと、どこの会社でも会社持ちということなので、逆に経費を計上せずともm人数分、パスを用意して、支給すればいいだけのことであった。
ただ、実際にそんなものが存在したということは事実であって、フリーパスという、
「職員乗車票」
なるものがあったとうことであった。
JRになり、高速鉄道が普及してくると、別の弊害も出てきた。やっとここ十年くらいの間で、鹿児島から北海道(函館)までという路線が繋がっているが、現在整備新幹線ということで、どんどん短い区間も新幹線で結ばれる可能性がある。
九州でいえば、長崎ルートなどがその一つで、博多から長崎まで、特急列車でも二時間ちょっとくらいでいくのだから、新幹線にもなると、一時間くらいであろうか。
「乗ったと思ったら、すぐに終点」
ということになりかねない。
まだ路線としては、建設中だったりするのだろうが、特急列車の旅の醍醐味として昔から利用されてきた、食堂車もすでになく、ビュッフェもない列車もある。そして、車内販売もないとなると、
「旅の楽しみなど、皆無になってしまった」
ということになるであろうか。
確かに長崎ルートが開通すれば、到着までが、
「ただの昼休みと同じ時間だ」
ということになれば、車内販売でお弁当を買っても、車内で食べる時間もない。
食堂車もしかりで、頼んでから運ばれてきて、そこから食べ始めるのだから、せっかく席を取っていても、まったく意味がないということになりかねない。
「一時間なんて、通勤時間の方が長いくらいだ」
ということになるだろう。
そうなると、日帰り出張が増えるというのも当たり前のことなのかも知れない。
「朝、会社に通常で出勤し、そこから午前中のうちに、出張先に移動。昼から会議をして、夕方には終われば、そのまま直帰をしても、普段の出勤よりも早く家に帰りつくことができる」
ということも、当たり前のようにあることだろう。
子供の頃に新幹線に乗って、新逢坂から東京まで行っても、三時間近くはあった。これだけあれば、食堂車に行っても時間的にはおつりがくるというもので、食堂車から食事をしながら表を見るのが楽しみで、注文するものは、サンドイッチだったり、ミートソーススパゲティだったというのが、当時の子供ではなかっただろうか。
いや、お子様ランチというのもまだまだ主流で、お子様ランチというと、、百貨店の大衆食堂というイメージがあるのは、偏見であろうか。
当時の百貨店には、大衆食堂があった、いつ頃から見なくなったのだろう?
そういえば、かつて列車の中にあった食堂車、駅の中のレストランなどは、日本食堂という会社がやっていたような気がする。
調べてみると、どうやら国鉄民営化に伴い、各地域の鉄道会社が分割経営されることになり、いくつかの会社になり、存続しているところもあれば、すでに清算してしまったところもあるという。
鉄道会社が、
「食堂車や者倍販売を中止」
というのだから、それも仕方のないことだろう、
「いや、食堂会社の方の経営に無理があったのかな?」
とも思えるほどで、実際に、食堂車というものや車内販売にどれだけの儲けがあったのか、よく分からない。
「列車が時短になったので、経営も滞ったのではないか?」
と考える方が、余計な詮索をせずに済むのかも知れない。
昭和四十年後半ともなると、すでにカラーテレビも普及してきた。
「一家に一台のテレビ」
というのは、ほぼ当たり前の時代になってきたであろうか?
さらに、時代は博覧会時代の幕開けと言ってもいい。そのさきがけとなったのが、
「一九七〇年のこんにちは〜♪」
で有名な、大阪万博が開かれた年であった。
「芸術は爆発だ」
でおなじみの、岡本太郎先生の創作物である、
「太陽の塔」
さらに、文明の利器として初めて登場したのが、
「動く歩道、ムービングウォーク」
であった。
世界各国のパビリオンが作られて、アメリカ館などでは、アポロが持ち帰ってきた、
「月の石」
が展示されたりしていたのを懐かしく思う人もいるであろう。
博覧会というと、その後、本土復帰の祝賀も込めて行われた、
「沖縄魁皇伯」
さらに、大阪万博から十年後(正確には十一年後であったが)、神戸で開かれたポートピアなどが皮切りになって、その後、時代が平成に変わる前後、街中年代後半から九十年前半にかけて、未曽有の、
「博覧会ブーム」
があったではないか。
「筑波のつくば科学博」
「大阪の花博」
「福岡のアジア太平洋博覧会」
「長崎の旅博」
その他たくさんの博覧会が催されたのがこの時期だったのだ。
そう、この時代には、一つ大きな転機があった。実際にはタイムラグがあったので、博覧会ブームに浮かれてる場合ではなかったのかも知れないが、転機になったのは、
「バブル経済とその崩壊」
であった。
実際に経済が潤っていた時代というのは、経済の基本である。
「モノを生産し、それを売って、対価を得る」
ということで経済を回していたが、バブル経済というのは、その、
「モノの生産」
という過程がなかった。
例えば、土地に値段がつくのだが、
「所有者が、安い時に購入し、高値で販売すると、その分が儲かる」
という考え方で、決して、モノの介在が経済の基本ではなくなっていた。
したがって、モノというものがいらないのだから、資金さえあれば、いくらでも事業を拡大できる。
「拡大すればするほど儲かる」
という仕掛けになっていたのだ。
しかし、理論的に考えて、限りあるお金なのに、
「すべての人が公平に儲かる」
などということはありえない。
「儲かる人がいれば、損をする人が出てくる」
これが、プラマイゼロの発想ではないだろうか。
それを考えると、バブルが弾けるのは当たり前のことで、そうなると、事業を拡大した分だけ、借金を抱え込むということになるのだ。
しかも、そのあおりを食うのが、銀行を中心とした金融業で、何しろ銀行は、
「世間が事業を拡大しようというのだから、こちらもそれに乗っかって、乗り遅れないようにしないといけない」
ということで、もちろん、前もって融資企業を調査くらいはするだろうが、表に出ている数字だけを見れば、儲かっているのは当然である。儲かっていない会社が、いくら事業を拡大したいち思ってもできるわけがないからだ。
銀行はこぞって金を貸すが、相手の資金繰りがうまくいかなくなれば、当然資金が焦げ付いて、そのすべてが不良債権となってしまう。
回収できるはずのない不良債権を抱え込んでしまうと、さすがに、
「銀行は絶対に潰れることはない」
と言われていたとしても、ひとたまりもないだろう。
バブル崩壊において、一番びっくりしたことで、世間の人がバブルからの夢が覚めた出来事としては、
「絶対に倒産しないと言われた銀行神話が崩壊したこと」
だったのではないだろうか。
「まさか、銀行が倒産するなんて」
と誰が思ったことだろう。
その頃から、世間で、リストラという言葉が流行り出し、
「収入から利益が出せないのであれば、支出を抑えるしかない」
作品名:回帰のターニングポイント 作家名:森本晃次