回帰のターニングポイント
奇妙ではあったが、執事も敢えて彼のことや、彼の家族について触れることもなかった。しかも、独自に調査してみようともまったく考えていないようで、
「我が家とは関係がなかったんだ」
あるいは、
「あのような男の子は存在していなかったんだ」
ということで、言い方は悪いが、隠蔽を考えているといってもよかっただろう。
しかし、忘れた頃のことであったが、
「この間、不思議なものを見たんだ」
という人がいたという。
その人は、どうやら、
「幽霊を見た」
と言っているようなのだが、その幽霊というのが、家に招いたあの少年のことのようだと、執事は言っていた。
「どういうことなの?」
と聞いてみると、
「幽霊を見たというのは、実は、もうこの世にいない人を見たということのようなんです。半年前に病気で死んだ男の子がいたんですが、その子が、砂浜にいたと言っているんです。その子は他の見たことのない女の子と楽しそうに遊んでいて、その女の子が白いドレスを着ていたというんです。その男の子というのは、男の子なんだけど、実は女の子が好きで、自分のことを本当は女の子だったんじゃないかと思っていたというんです。たぶん、前世が女の子だったのではないかと言いたかったんでしょうが、大人たちはそこまで分かっていなかったというか、そもそも男の子が女の子だったなんていうことを言い出すことが信じられないと思っているんでしょうね」
と言っていた。
令和の時代であれば、
「性同一性症候群」
というものがあり、男性が、
「自分の本質は女性だったのではないか?」
と感じて思い悩むということである。
今の時代でも、カミングアウトと言われるほど、告白するのに、かなりの勇気を有するのに、昭和のお堅い時代であれば、そんなことを口に出してしまうと、まともな人間扱いされることはないだろう。
一種の差別になるのだが、当時の同和教育であったり、差別問題に関しては、まだまだ発展途上というよりも、後進だったのだ。
ただ、いちかには彼の気持ちがわかる気がした。見た目には、線も細く、女の子という雰囲気も漂っていた。
自分が男の子だったら、気持ち悪いとしか思わないかも知れないが、女性の立場から見ると、そうでもなかった。ただ、思春期になっていないというだけのことなんだろうが、そういう意味で思春期というものの存在は、かなり自分の性格に多大なる影響を与えるものなのだろう。
「あの子は、白いドレスに憧れていて、よく家で、母親の白いドレスを身にまとって鏡に映して見ていたみたいなんです。ひょっとすると、彼の女の子に対する願望は、母親の影響があったのかも知れませんね」
「お母さんか……」
といちかが呟くと、
「彼のお母さんも、実は、二年前に亡くなっているようなんです。かなりのショックだったようで、自分もどうせ助からないのだろうから、せめて、お母さんのところに行けるように願うだけだ」
と言っていたようだ。
それを聞いて、いちかは、何も言えなくなった。
何を言えばいいのか分からない。こんな時に発する言葉が思いつかない。そんなことを考えていると、彼がかわいそうに思出てきた。
自分を女の子だと思う気持ちはよく分からない。しかも、それが死んだ母親への気持ちから来ているもので、母親とはもう二度と会えない存在であるということも分かる気がした。
しかし、彼はすでにもうこの世にはいないという。だったら、自分が出会ったのは誰だったのだ?
こんな非科学的な話を信じろというのか? 信じられるわけもなく、逆になせ自分が今このやるせない気持ちにさせられなければならないのか?
そう思うと、
「私が何か悪いことでもしたというの?」
という思いに駆られてしまった。
いちかは、別に何も悪いことをしたわけではない。彼が自分のところに来たのは、自分が悪いことをしたことによる何かの戒めではないと思いたい。
その証拠に彼は優しかったではないか。あんなに楽しそうにしていた。少なくとも執事の話を聞く限り、自分の前での彼は、他の人に見せたことのないような、楽しそうな笑顔を見せていたのではないだろうか。
その思いをどう表現していいか分からない。
「いや、表現する必要なんかないんだ」
と感じた。
その少年のことを考えていると、肇のことが頭に浮かんできた。
「ひょっとすると、彼は私に肇さんのことを意識させるために、わざわざ出てきてくれたのかしら?」
という思いに駆られた。
普通に考えれば、そんなことはないのだろうが、そう思ってしまうと、状況がオカルトっぽいことなので、それ以外を考えられなくなった。
一途な思いから彼が自分の前に出てきてくれたのだとすれば、その思いにどう答えていいのか分からない。
だとすると、自分は猪突猛進で思いついたことを真実なのだと思い込んで、前だけを向いていくしかないと思ったのだ。
これが、いちかにとっての、長所であり、短所でもあったのだ。
執事もそのことをよくわかっているので、それ以上は何も言わない。変に何か言ってもいちかを迷わせるだけだし、何を言っていいのか、正直思いつかない。
今までの執事は、いちかのことをよくわかっていて、いちかにその時最適な言葉をかけられる人間だと自分でも思っていた。
「最適な言葉をかけられないのであれば、中途半端に何か言ったりしない方がいいんだ」
と思っていたのだ。
いちかは、その時のことを、
「まるで夢だったんだ」
と感じる。
そして、
「彼が一体どこに行ったのか?」
ということを考えてみると、必要以上に余計なことを考えてはいけないと思うのだった。
ただ一つ夢の中で覚えているのは、彼がもう一度どこかで生まれていて、自分と出会うことができるということだった。
その思いをずっと抱いたまま、肇と仲良くなった。付き合っているのか、どうなのか、いちかにはハッキリとは分からない。なかなか彼の気持ちが分からなかったからだ。
だが、彼は医者になろうと頑張っていた。論文も頑張って書いているようだし、何やら研究もしているようだ。
「体内にあるものは、摂取しても分からない」
というようなことを研究していて、それがまるで完全犯罪をもくろんでいるかのようにも感じたが、決してそうではなかった。
どうやら、彼は自分が医者になる第一歩として、この発想に駆られたのだ。普通なら自分だけの胸にしまっておきそうなことなのに、彼はいちかに対してこの話をした。
「そうなんだ、身体の中にあるものって、毒にもなるけど、薬にだってなるんだと思うんだよ。クスリと言っていながら、毒のようなものだってあるじゃないか。麻薬のようにね。だから、身体の中にあるものは、同じものであっても、時と場合によっては、毒にもなれば薬にもなるというものもあるんだ。それをしっかり見極めることで、死ななくてもいい人が一人でも助かれば、それだけで研究する意味があると思ってね」
と言っていた。
そして彼はさらに、
作品名:回帰のターニングポイント 作家名:森本晃次