回帰のターニングポイント
「囚われて、ひどい拷問を受けることを考えれば、潔く日本男児として、自らの命を断つということを考えてほしい」
という形で行ったのだった。
明治の頃も、戦陣訓ができた頃というのも、時代が時代であり、いくら、
「ハーグ陸戦協定の条文」
があるとはいえ、実際に捕虜になってしまうと、相手にどんな残虐な目に遭わされるか分からないというものだった。
特に中華民国下の中国人は、偏見といえるほどの反日感情を抱いており、その虐殺行為は、すでに周知のことだったのだ。
かつての南京大虐殺が、某新聞社の謀略だったという事実と、南京制圧の前に、北京での通州における、
「通州事件」
という残虐極まりない事件を引き起こした中国人というのが、どれほどのものだったのかというのは、今ではネットで調べればすぐに分かることだった。
南京事件に比べて、
「規模が小さかった」
ということであったり、戦勝国と、敗戦国との言い分の違いということを差し引いて考えれば、南京事件を今さらながらに問題にできないことくらいは明白であろう。
これは過去の歴史のお話であるが、それだけではなく、現在でも、玉砕ではないが、自爆テロというものが実際に横行している。
やっていることは、まるで旧日本軍の、
「神風特攻隊」
のようであるが、発想が違っている。
神風特攻隊は、
「日本の国を守るため、天皇陛下の御ために、自らの命を犠牲にしするという、家族は国家を守る」
ということが先決である。
自爆テロの場合は、
「自分たちは侵略者から、自らの命を犠牲にして、より多くの侵略者たちを葬り去るという意味で、自分たちが死んでも、その先には、神の国があり永遠の幸せが待っている」
というようなものではないだろうか。
つまりは、宗教に基づいた考え方であり、死ぬことを、
「神に召させる」
という考えだ。
ここでは、国家や個人、家族は関係ない。本人と神との間のことであるのだ。
日本の神風特攻隊の考え方は、国家があり、そして神様である天皇のために命を捧げるという意味で、正当性という意味では、どちらが正義だというのだろうか?
「どちらも正義であり、どちらも正義ではない」
と言えるような気がする。
それを決めるのは誰かということである。
「神が本当に存在し、それを決めるのが神だというのであれば、正義なのかも知れないが、神が存在しなかったり、存在しても、神にその決定権がなかったりすれば、その行為に正義はない」
と言えるのではないだろうか。
そういう意味で、話としては似てはいるが、その根底にあるものはまったく違うというのが、大日本帝国における、
「神風特攻隊」
と、イスラム世界などによくある、
「自爆テロ」
との考え方というのではないだろうか。
逆に日本という国が、キリスト、イスラムなどの宗教の勢力圏にあれば、果たして、
「神風特攻隊」
なるものが存在しただろうか?
あくまでも民族性の違いでもあり、日本人は、島国育ちでもあるので、やはり考え方の違いは如何ともしがたく、自爆テロを行うような国ではなかったかも知れない。
大団円
昭和の逆に、
「横断歩道、みんなで渡れば怖くない」
というフレーズがあったのを覚えている人、後から聞いてセンセーショナルなイメージを抱いて、同調した人も少なくはないだろう。
この感覚を、
「集団意識のなせる業」
と言われる。
恐ろしいことであっても、自分だけではないと思うと、なんでもできてしまうということでもあり、マインドコントロールを行うにはちょうどいいともいえるだろう。
そういう意味で、前述の、
「自爆テロや神風特攻隊」
であったり、
「集団自決や、玉砕」
といった発想が出てくるのである。
これは、やはり宗教的背景が強いのかも知れないが、
「自分たちのような神を信じている人間が団結すれば、怖いものはない」
という発想であったり、以前、どこかの国にある、
「世界終末論」
というものが信じられていた。
それは、まるで、
「ノストラダムスの大予言」
のようなもので、
「〇〇年〇月〇日、地球が滅亡する」
ということを、その国の国民の一部の人に信じられているというものだった。
宗教的なものから出てきたのではないのかも知れないが、その話が宗教と深く絡んできたのが、深く信じている連中に対し、宗教団体が言葉巧みに近寄って、
「この世で善行をすれば、あの世で救われる」
という、どの宗教でも変わらないことを唱えている宗教があったが、いかにもウソ臭いということを、部外者であれば分かったことだろうが、信じた人たちは、やつらのいうこととして、
「あの世に召されれば、現世で持っているお金は役に立たない。したがって、お布施をするというよいことをすれば、救われて、極楽で幸せに暮らしていける」
というのだった。
冷静に考えれば、詐欺であることは子供でも分かるだろう。
「宗教団体だって、みんなが滅んでしまうのだから、お金があったって、同じことではないか」
ということだ。
つまりは、
「世界最終説を一番信じていないのが、宗教団体の連中で、信仰を信じてる連中は、カモでしかない」
と思っている証拠ではないか。
ただ、宗教団体が間抜けだったのは、自分たちだって信用していない世界の滅亡伝説。世界が滅亡しなければ、お金をだまし取った連中も生き残ることになる。すると自分たちが訴えられるのは、歴然とした事実。それが分かっているのに、どうしてこのようなあからさまな詐欺をしたのだろう?
「信者が勝手にお布施をした」
と言って逃れるつもりか?
逃れられたとしても、信用はまったくないわけで、
「人の弱みにつけこんで、金をだまし取った卑劣な団体」
として言われ続けることになるのは分かっていることだ。
それでも、詐欺を行ったということは、それらのマイナスを全部差し引いてもプラスになるだけの巨額の金をだまし取ったということだろうか?
比較できるものではないが、
「すべての名誉や社会的な立場を犠牲にしてでも、その代償となる金額というのがいくらなのか?」
ということをあの連中には分かることなのだろうか?
いちかは、それを考えると、あの別荘に遊びにきてくれた少年がどうなったのかが気になるところであった。
あの少年は、いちかが別荘に招いた次の日から出会うことができなかった。
どこかに引っ越したのか、いちかの前に現れることができない何かのっぴきならない理由ができたのか、いちかには分からなかった。
ウワサというのは、無責任に流れるものなのに、その少年がいなくなったことをウワサする人は誰もいなかった。
大人の人も、どこかの一家が急に引っ越していったとしても、ウワサくらいにはなりそうなものだし、何も言わずに引っ越していったのなら、なおさら、ウワサがどんどん増えてくるというものである。
それなのに、何もなかったかのように静まり返っているというのを、執事も気にしていたようだ。
作品名:回帰のターニングポイント 作家名:森本晃次