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回帰のターニングポイント

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「お百姓さんが一生懸命に作った農作物を食べないなんて、もったいない」
 という言葉と一緒に言われてきた。
 食料の危機的で絶望的な不足から、
「栄養失調で、町に行き倒れた人が何体もしたいとなって溢れている」
 というような地獄絵図を、今の人は誰も知らないだろう。
 今では後期恒例の人であっても、ギリギリ子供の頃の記憶があるかどうか。なんといっても、終戦の年に生まれた人は、令和三年では、七十歳後半という、いわゆる、
「後期高齢者」
 ということになるのだ。
 やはっり、戦時中の話は、経験者が伝えてきた一代で、その次の代にはなかなか伝わらないだろう。なんといっても、経験がないからである。
 さすがに安楽死と、被災によっての死というものを同じ高さで比較するというのは、違うのかも知れない。
 ただ、死とものを考える時、その正対するという意味での、
「命」
 という言葉を考えると、
「生殺与奪の権利というのは、誰にあるだろうか?」
 と考えてしまう。
 宗教によっては、倫理として、
「人を殺めてはいけない」
 と言われる。
 これは宗教がどこであろうが変わりはないだろう。そして、ここでいう人というのは、他人でけではなく自分にも言えることであり、
「自殺は許されない」
 ということも言っているのと同じである。
 そういう意味で、戦国時代、石田三成が関ヶ原の戦いを起こそうとし、上杉征伐に向かった各大名の家族を人質にとって、自分につかせようとたくらんだことがあったが、その時、細川忠興の妻であった、細川たま(ガラシャ)はキリシタンであった。
 ちなみに彼女は、明智光秀の娘であったため、信長を討ったのが父親だということで、亭主に対して、負い目もあっただろう。
 そのようなこともあり、自分が生き残ったことで、
「旦那に迷惑がかかってはいけない」
 と考えるのだが、キリシタンである彼女は、
「自殺は許されない」
 ということで、どうしたかというと、
「自分の家来に自分を殺させた」
 というのである。
 これは美談のように思えるが、果たしてそうなのだろうか?
 時代が時代だったと言えばそれまでなのだが、
「人を殺めてはいけない」
 という前提があるのに、家来に自分を殺させるというのは、ありなのだろうか?
 それを考えた時、
「家来はキリシタンではないので、殺してもかまわない」
 と思ったのか。
 そもそも、家来は彼女を守護する兵士である。それまでに何人も戦で殺めているかも知れない。
 また、このようなことになれば、当然戦うだろうから、自分が殺されないようにするには、そして細川家を守るには、むざむざ殺されることをせずに、戦うに違いない。
 そこまで考えて、家来に自分を殺させたというのか。
 しかし、キリスト教の考え方(ほかの宗教でも同じのが多いが)では、
「人を殺めたものは、地獄行きが決定で、決して極楽にはいけない」
 というのに、ガラシャはそれを分かっていて、自分を殺させたのだとすれば、罪は重いだろう。
 確かに、自殺はいけないという教えではあるだろうが、だからと言って、他人を巻き込んで自分を殺させるというのが、キリスト教的に正しいのだろうか?
 もし、これが正しい行動だったのだとすれば、筆者は納得できないことが結構ある。そう考えると、
「人を殺めてはいけない」
 という十戒に書かれている内容を、拡大解釈して、
「自殺も許されない」
 と考えるのは、矛盾していることではないだろうか。
 そうなると、安楽死も同じことではないかと思うのは、発想が違っているのだろうか。
 安楽死というのは、本来であれば、自殺をしようにも、本人にできないということで、医者が患者の気持ちを推し量って、手を下すということであり、もちろん、家族の同意も得ていることが大前提である。
 しかし、安楽死をダメだという発想は、自らを他の人に殺させた細川ガラシャの行動を、
「許されないことだ」
 というのと同じではないだろうか。
 安楽死にキリスト教は関係ないというのだから、安楽死と細川ガラシャのケースは根本から違っているともいえるが、簡単に切り離して考えられないという思いが実際にはあったりする。
 ただ、細川ガラシャの覚悟は本物だっただろう。そういう意味で、すべてを否定するのはおかしな気がする。そもそも今と時代も違うので、主君と家来との関係がどのようなものであったのかということを、想像するのは無理なことであろう。
 もしできるとすれば、他の事例から分析して、その前後関係を考えた時に、そこに矛盾がなければ、想像できたと言えるのではないだろうか。だが、人には、
「人それぞれ」
 という感覚もあり、すべての人間がロボットのように、いくつかのパターンで振り分けられるのであれば、想像をするということは、まるで、交わることのない平行線を交わらせるようなものだと言ってもいいのではないだろうか。
「人を殺めてはいけない」
 という言葉は、他の何かと一緒に考えた時、矛盾をはらんでしまうという危険性を持っている。
 だから、強引に理解しようとすると、まわりから攻めていくことになるのだが、人間の身体も頭も一つしかない。
 例えば、左右の手で、それぞれ別のことをしようとして、それを意識してしまうと、なかなかできないというのと同じではないだろうか。
 無意識に本能から身体が動くのだから、できているのであって、条件反射のようなものが無意識につながっていかなければ、きっとできないことなのだろう。
「だから、楽器のできる人と、できない人に分かれてしまうんだ」
 と考えたことがあったが、これは楽器に限ったことではない。
 単純に考えて、何かをできるできないの境界線がそこにあって、
「克服できれば、できりと言え、克服できなければ、できないと言える」
 と考えることができる。
 ただ、これは本当に単純な考えで、これをそのまま鵜呑みにして考えることが、本当に正しいのかと考えてしまうのだった。
 だが、世の中理屈で割り切れないことが山ほどある。理屈で考えられないから、余計に難しく考えてしまうのだろうが、逆に単純に考えることもできないのだろうか? ということであった。
 実際に単純に考えてみると、
「何だ。考えすぎだったんじゃないかな?」
 と言って、難しく考えていた自分がバカにタイに思えるくらいであった。
 元々が曖昧な言葉であるものを、他の何かと一緒に考えようとするから難しいのだ。曖昧なものをまず、理解できる曖昧ではなく、説明のできる言葉にかみ砕いたところで、他の何かと一緒に考えれば、理屈が矛盾にならないことになるはずなのに、それができないということは、曖昧なことを、無意識に、
「曖昧だ」
 と自分で思っているからなのかも知れない。
 考えすぎる人というのは、すべてのことに、裏表を考えてしまう。だから、裏表を考えた時点で、
「そのことに対してすべてを自分は理解したんだ」
 と感じてしまい、その思いが、少し大きな場面で見えているはずの、裏表に気づかないことで、矛盾として片付けようとしてしまうのではないだろうか。