回帰のターニングポイント
それを、戦後、このスローガンではまずい、アメリカを中心とした戦勝国が、強引に大東亜戦争と呼ばずに、太平洋戦争と名付けたのが、今に至っているわけである。閣議で、
「先のシナ事変を含めたところで、大東亜戦争とする」
と決まったのであって、しかも戦線は太平洋のみならず、インドを含む中央アジアにまで及んでいるのだ。太平洋戦争というのは、あまりにも狭い範囲だと言えないだろうか。まるで相手がアメリカだけだったようではないか。
そんな時代を潜り抜けてきた教授だから、その時の苦労も分かっている。
たぶん、あの時代を知らない人にいくら諭しても分かるものではないと思っているに違いない。
もちろん、知らないのは事実だし、自分たちも分からないのは当たり前のことであった。
何といっても、目の前で手の施しようもなく人がどんどん死んでいくのだ。今のように特効薬が十分な時代ではない頃のこと。しかも、栄養失調の人に薬を与えても同じであり、一番与えるべき、栄養のある食物が供給されていないのであるから、本当にどうしようもない。。
「明日は我が身」
だと、当時の人は思っていたことだろう。
しかも病気にかかったら、誰も助けてくれない苦しみ、正直、昭和五十年代後半ではわかるはずもないだろう。
ただ、
「時代は巡る」
というべきか、令和元年の年末くらいから流行り出した伝染病が全世界に猛威を振るっていた時、日本でも類に漏れず、大流行した。
欧米に比べれば、患者の割合はそれほどでもなかったにも関わらず、日本独特の考え方というのか、そんな他国から、
「感染者が少ない国だ」
と言われているにも関わらず、医療崩壊を各地で起こしていた。
なんといっても、救急車を呼んでもなかなか来なかったり、呼吸困難に陥り、人工呼吸器が必要なのに、十分に行き渡らなったり、さらには、人工呼吸器を必要としないというだけで、呼吸困難に陥っていて、熱も高熱でうなされているのに、入院もできず、自宅療養を余儀なくされるのだ。
そのため、自宅で容体が急変して救急車を呼んでも、受け入れてくれる病院がないために、何時間も救急車で待たされて、中にはそのまま死んでいくということもあった。
さらには、自宅で急変し、救急車を呼ぶこともできず、人知れず死んでしまっていて、数日経ってから、安否確認が取れないということで自宅に行ってみると、一人で死んでいたということだったりするのだ、
戦後の混乱であればまだしも、今の令和の時代にそんなことが起こるのだ。
しかも、感染症にも関わらず、隔離をすることもなく、自宅療養である。家族は放っておくわけにもいかないので、誰かが看護することになる。
当然、介護している人が感染する可能性は高く、そこで家庭内感染を起こし、それが市中に広まっていくということになる。
いくら未知のウイルスによる感染ということであっても、政府は、コロコロ話を変えるし、マスゴミは自分たちの記事を売るのが仕事だという正当性をひけらかして、世間や世論をあおり、必要以上の混乱を巻き起こすことになっている。
政府は、オタオタするだけで、マスゴミのプロパガンダに騙されたり、逆にマスゴミを使って、政府のやり方を世間に言い聞かせるような感じになってしまう。
口では、
「要請やお願い」
と言っておきながら、それは自分たちが金を払いたくないから、世間に対して厳しくもできない。
つまりは、
「保証をキチンとできないから、命令もできない」
と言って、それが日本の仕組みだと言って、世間に吹聴しているのだ。
「保証さえキチンとしていれば、罰則を伴った命令を出したとしても、逆らう人はほとんどいないだろう」
と言われる。
確かに政府に金のないことは分かるが、まずは、感染を抑えるのが一番の問題で、そのためには、みんなが一致団結しなければいけないのに、業種によって不公平があったりして、従わない人も出てくるのは仕方のないことだろう。
また、
「日本は、平和ボケをしている」
と言われている。
日本には、
「戦争のない平和憲法」
というものが存在する。
つまり、日本に有事はなく、戒厳令というのが、法制化されていないのだ。しかし、戒厳令は別に戦争やクーデターだけではない。災害時にも発令されるものだ。それが整備されていないから、阪神大震災の時も、東日本大震災の時も、初動が遅れることになったのだ。
日本の国には、軍隊はないが、自営地がある。自衛隊の主たる存在目的は専守防衛と、災害時における救援活動などである。災害が起これば、被災地における自治体の長が、国に自衛隊出動の要請をお願いし、首相が出動を決定する。
阪神大震災の時などは、兵庫県から自衛隊の出動要請がかなり遅れた。知事が行っていなかったことや、他の議員が連絡を行い、出動要請の手配をしても、なかなか中央政府も実際の状況を知らずに、
「大げさだ」
などと言って、初動対処に重大な遅れをもたらした、
それだけ日本は、平和ボケをしているということだ。
「神戸を中心とする阪神間に、地震のようなものは起こらない」
などというおごりと、もう一つは、当時は、村谷首相を中心とした社会党政権だったということである。
当時の社会党は、二大政党の一つで、それまでの自民党政権から政権交代を行い、打ち立てた政権であった。
しかも、社会党というと、そのスローガンに、
「自衛隊反対」
という左翼的思想があった。
そのため、自衛隊にはなるべく頼りたくないというのがあったということで、自衛隊が出動できないという弊害があった。
このことは、世界のメディアにも伝えられ、かなりの批判を浴びることになる。
なんといっても、
「平和ボケ」
と、
「左翼的思想」
という政治的意図によって、
「助かる命を助けられなかった」
という事実は、なんともまともに口にできないほどの話ではないだろうか。
ただ、問題はそれだけではない。
「被災地の知事から出動要請がなければならない」
という当時の法律が大きな足かせになったのだ、
兵庫県知事が出動要請をしなかったのは何を考えてなのか分からない、少なくとも、自分のところには、すべての情報が流れてきていたはずだ。本当にやり切れないとは、このことではないだろうか。
そういう意味で、
「生きたいと思っても、生きられなかった人もいる」
というのが、災害被害者ではないだろうか。
戦争においての、被害者も同じで、線上に赴いた兵士であったり、空襲によって死んでいった一般市民であったり、どれだけ無念であっただろう。
それを思うと、前述の安楽死という問題がさらに複雑な問題になってくる。
特に、日本は、いや、当時は世界中の人がというべきであるが、相当な人間が、
「生きたくても生きられなかった」
という目に遭ってきているということを知っているということで、簡単に安楽死を認めるというわけにもいかなかっただろう。
特に、子供が食事の好き嫌いをいうと、いつ頃までか、
「昔は食べたくても食べれない時代があったんだ。嫌いなものは食べれないというのは贅沢だ」
という発想があった。
確かに、
作品名:回帰のターニングポイント 作家名:森本晃次