回帰のターニングポイント
「そんなに難しく考える必要はまだないと思うんだけど、医者になったら、いつ何時、このような状況に直面しないとも限らない。その時、君がどう選択するかだと思うんだけど、たぶん、どっちを選択したとしても、覚悟を一切感じずに事に当たろうとしたならば、どちらに転んでも、絶対に後悔はすると思うんだ。きっと、後悔をしないようにしようと考えるはずだろうから、その状況の中で、何をどうすれば、どのような感情に当事者がなるかということを理論立てて考えるだろうと思うんだよね。医者という仕事はそういうもののはずだからね。だけど、この件に関しては、基本的には後ろ向きでしかないと思うはずなんだ。だって、医者は患者を助けるためにいるという存在意義を感じながら仕事をするはずだからね。そう思わないと逆に人は救えないはずなんだ。だから、手術で全力を尽くして助けることができれば、医者冥利に尽きるというものだし、自信にもなる。自分は人を助けるために医者になったんだと改めて感じることだってできるんだ。でも失敗するとそうはいかない。自分を責めるはずだからね。だけど、その時は立ち直ろうという気持ちが持てるので、立ち直るのは時間の問題のはずなんだ。もちろん、そこで医者を辞めてしまう人もいるだろうけど、最終的には後悔はないと思うんだ。だけど、尊厳死に対してどのような結論を出そうとも、誰かが必ず苦労する。それを分かっているだけに、選択しなければいけない立場の人間は追いつめられることになる。しかも、現行法では、尊厳死は認められていないというのが原則なので、それも分かっていての苦しみなので、現行法の原則をそれでも破るというのであれば、絶対的な覚悟を持っていないと、結局最後は、自分で自分の首を絞めることになる。そのことをどれだけ自覚できるかということが大切なんだよ」
と、教授はいった。
肇がその話を聞いてゾッとしたのは、
「医者になれば、いつ何時、誰もがその立場に立たなければならないか分からない」
ということを聞いたからだった。
いかに、覚悟が大切かということは、その立場に入った時点で最初から覚悟を決めることができていなければ、すべてが後手に回ってしまって、どっちに転んでも、後悔するしかないということになるのであろう。
そんな尊厳死の中で、肇は恐ろしいことを考えていた。
「先生、この話は、本当にここだけのオフレコで行ってほしいんですけども」
というと、先生も、肇が何を考えているのか分からなかったが、覚悟とは違った空気を感じたので、緊張していた。
――たぶん、ロクなことを考えているわけではないだろうな――
とは思っているだろうことを分かっていた。
「実は、尊厳死というよりも、僕は安楽死という方に考えようと思っているんですよ。そうすれば、少しは気が楽になるだろうと思ってですね」
と言い出したのだ。
「それは、責任を負いたくないということなのかな?」
と聞かれて、
「そうですね。少し責任回避もありますね。責任回避というよりも、自分の中で逃げの気持ちといった方がいいかも知れない。責任回避というと、どうしても責任があって、そこから逃げるのではなく、回避だと思うようにしようという考えですね。でも、それ以上に自分が逃げていると思っていると、気は楽になるような気がするんです。それはいい悪いという問題ではなく、心の中に遊びの部分というか、車のギアでいえば、ニュートラルな状態というべきでしょうかね。そういう意味で、尊厳死という言葉よりも、その状態だけで表現する、安楽死という言葉の方が、どこかに逃げ道があるようで、楽な気分にさせてくれると思っているんですよ」
と肇はいう。
「一体、君はそうなった時にどうしようと思っているんだい? ニュートラルな部分であっても、逃げようとしたとしても、気が楽になれるんだろうか?」
と教授は言った。
「あくまでも、表面上でだけのことなんですが、僕はこれを、どう口で言ったとしても、安楽死は、殺人以外の何物でもないと思っているんですよ。だったら、せめて、安楽死であるということを他の人には悟られないようにするだけで、気が楽になるんじゃないかって思ったんです。つまりは、完全犯罪をもくろんでいる殺人犯の感覚ですね」
と肇は言い出した。
どうも話が飛躍しすぎている感じもするのだが、教授はそうでもないと思った。
確かに、肇の言っていることは、支離滅裂な感じも受けるが、
「誰かがこれをしなければならない」
というのであれば、せめて、医者としての責任を問われないようにすればいいと考えているのではないかと感じたのだ。
「何をどうしようというんだい?」
と聞かれて。
「もちろん、やり方というのは、他にもあると思っているんですが、僕は安楽死をさせてやるのだとすれば、少しでも罪悪感や、世間の目を和らげるにはどうすればいいかと考えたんですが、今のところ、結論として考えたのは、これを安楽死というものではなく、自然死であるということを思わせるような方法がないかということなんです。確かに、安楽死である以上、自分をごまかすことはできないだろうし、人を殺すということに対しての意識が残るのは仕方がないとは思うけど、少しでも、その影響を少なくするには、自然死に見せかけることができれば、家族には、罪の呵責に苛まれることはないと思うんですよね」
と肇は言った。
「そんなうまい方法ってあるのかい?」
と聞かれて、
「もちろん、研究は必要だと思うし、やり方も一つではないと思うんですが、今のところ一つ考えているのは、身体の中にあるものであれば、それを少しずつ接種していったとしても、分からない、自然死に見えるのではないかと思うんですよね」
というと、
「なるほど、それが少しでも、当事者の中で納得のいくことで、まわりからも、何も言われず、議論にもならないという意味では、いいことなのかも知れないね。でも、まったくリスクがないというわけではない。もしバレてしまうと、その時のショックは計り知れないと思うよ。そういう意味で、ハイリスクハイリターンであるということは間違いない。一か八かという意味では、それこそバクチのようなものだよね。そういう意味でも、覚悟というのが大切になってくる。そこまでやるんだったら、他の人を巻き込んではいけないから、全責任を自分で負うだけの覚悟と責任を最初から持っていることが絶対条件なんじゃないかな?」
と、教授はかなり厳しめに言った。
さすがに肇は、そこまで言われるとは思ってもいなかったのだ。
だが、これは当たり前のことであり、少なくとも人を殺すということは間違いないことで、そのために、人を巻き込まないという大義名分のもとに、自分の保身も狙おうというものだ。大義名分の部分を徹底されて当たり前のことであった。
「よくわかります。だから、僕も覚悟は大切だと思うんですよ。でも、それで自分が人を殺すということに対して、少しでも後ろめたさをなくそうと思っているんです。こういうことは躊躇してしまうと必ず失敗に終わる。最低限の目的である、本人に安楽死をさせる ということがうまくいかなければ、本末転倒でしかないですからね」
と肇がいうと、
作品名:回帰のターニングポイント 作家名:森本晃次