回帰のターニングポイント
「自然死であり、事件性のないものとして、扱われた」
ということであった。
しかし、状況からは、限りなく「クロ」に近いものがあった。
動機としては、遺産相続が絡んでいて、しかも相続をした相手がかなりの借金を抱えていて、それで首が回らない状態になっていたことは事実だった。
しかも。それだけ切羽詰まっている中で、本人は、
「まもなく、お金のめどがつきそうだ」
と言って、見た目にも余裕があるようだったという、身近な人間の証言もあったくらいだ。
しかし、後から調べたところ、遺産相続をする以外に、彼に借金を返す当てなどなかった。
もし返すことができるとすれば、
「ミラクルでしかない」
と言われていて、それこそ、本人が事故にでも遭って死なない限り、返済の保証はなかった。
死亡保険で、何とか賄えるほどの大金だったので、本人も一度くらいは、そのことが頭をちらつかせたのかも知れない。それくらいの覚悟がなければ、払えないほどの借金だった。
借金の出所は、ギャンブルだった。普段から金銭的には厳しい人だと言われていた人間ほど、一度ギャンブルにはまってしまうと、その感覚が一気にマヒしてしまい、
「これくらいなら大丈夫だろう」
などと言って、どうしようもなくなってしまうようである。
「まるで麻薬のようだ」
というのが、いわゆる、
「ギャンブル依存症」
と呼ばれるものである。
令和の今ではパチンコ屋でもそのあたりをカウンセリングしたりするような仕組みもあるようだが、しょせん、最後は本人の意思によることになるのだろう。
逆にそうでなければ、うまくいくわけもなく、パチンコ屋に設置されている、キャッシュコーナーのATMでは、
「一日の引き出しが、三万円以上はできない」
というようになっていたりする。
しかし、本当に嵌っている人は、そんなことに関係なく、近くの金融機関であったり、コンビニで引き出してでもやるだろうから、ちょっとした抑止にはなったとしても、完全に防波堤になるわけではないのだ。
もっとも、本人の意思が脆弱だからこそ、
「ギャンブル依存症」
なのであって、買い物依存症と並んで、
「ギャンブルや買い物という楽しみがなければ、何もやる気が起きない」
ということであれば、依存症を必要悪と考えるべきではないかという考えもあることだろう。
しかし、それも、どのあたりがその境目になるかということが重要で、その人の感情だけに任せておけないと考えるのか、やはり本人の意識改革しかないと考えるのかではないだろうか。
柔軟な考えとして、どちらかに絞るのではなく、どちらの考え方を取り入れるというのも大切で、そのあたりを考え始めている機関もあるのではないだろうか。
実際に詳しいところまでは分からないが、肇としては、柔軟な考えが必要であると思っているようだった。
そんなギャンブルによって作った借金だが、最初のまだ借金が少なかった頃は、
「ギャンブルを続けていれば、そのうちに、稼げるようになる」
という考えのもとだったのかも知れない。
それはそのうちに、返せるどころか、雪だるま式に増えていくと、金銭感覚がマヒしてきてしまって、次第に借金を返すということよりも、ギャンブル自体が毎日のルーティンになってしまい、自分でも気づかないうちに、
「ギャンブル依存症」
と言われるようになっているのだ。
だから、借金が表面化し、まわりに迷惑が掛かってくるようになると、まわりが、弁護士などに相談すると、
「ギャンブル依存症ですね。典型的な」
と言われるのは目に見えている。
しかし、それを聞いて、一番意外な気がするのは、きっと、本人であろう。
「俺がギャンブル依存症?」
という表情をすることで、まわりはあきれてしまう。
「そうだよ、それ以外の何だっていうんだ。お前、まさか自覚がないなんていうんじゃないだろうな?」
と言われて、
「ああ、ギャンブル依存症なんて、言葉は聞いたことがあるけど、まさか自分がなるなんて思ってもみないさ」
というので、
「何言ってるんだ。ギャンブル依存症の他にないじゃないか。ギャンブルに嵌って謝金をこさえて。しかも、それをさらに繰り返す。典型的なギャンブル依存症の症状ではないか」
と言われてしまい、さすがにそこまで言われると、図星だということに気づいた本人が初めて自覚するというのが、ギャンブル依存症の人にありがちなことであろう。
とにかく厄介なのは、借金を抱えたうえで、ギャンブル依存症の治療に入らなければいけないということだ。
薬物依存であれば、本人の問題がほとんどなのだが、借金が絡んでくると、そうもいかない。絶対に誰かに迷惑がかかるのは間違いないからである。
迷惑がかかるのは家族であって、迷惑をかけられた家族はたまったものではない。自分たちが生活をしていくだけでも大変なのに、なぜ、家族とはいえ、他人の借金まで抱え込まなければいけないのか。こんな理不尽なことはないだろう。
そんなある日、そのギャンブル依存症になっていた男性の変死体が発見されたという。
その男は一人暮らしで、部屋は閉め切っていたというのだが、発見された時には、近所の人がいうには、
「ここ最近、見た記憶がない」
というものだった。
確かに、この人は近所づきあいが苦手で、近所づきあいというよりも、借金取りへの恐怖から、家にいる時もあまり、目立たないようにしていたので、誰も彼のことを気にする人もいなかった。
そもそも、アパートに住んでいる人は、隣に誰が住んでいるかなど気にする人はいない。近所づきあいなど皆無であり、警察も聞き取りの時に、
「どうせ、近所の人から、有力な情報が得られるとは思っていない」
と考えられていたのだ。
実際に近所からの情報は得られなかったが、この人が普段からあまり家にいなかったことは分かっているようだった。
それが、電気メーターであった。
クーラーのいる時期に、ほとんど電気代がかかっていないことを考えると、冷房の必要な時間、表にいたことになる、じゃあ、どこにいたのあというと、そう、ギャンブル依存症の人がクーラーのある場所を求めるとすると、考えられるのは、
「パチンコ屋」
ということになるだろう。
ほぼ毎日のようにパチンコ屋に入り浸っているようだった。
開店時間の十時から、夕方くらいまでパチンコ屋にいるという。
勝っている時は、ずっとパチンコ台の前にいるのだが、負け始めると、気分転換に、待合室にいることが多かった。
待合室には漫画や雑誌が置いてあることが多いので、涼むにはちょうどいい。喫煙者である彼にとっても、タバコが吸える場所ということで、それほど苦痛ではなかったのだ。
そんな毎日を過ごしていた彼も、パチンコでは、さほど大きな負けはなかったようだ。
別に釘が見れるというような特殊能力があるわけでも、台の特性が分かるわけでもなく、パチプロではないので、負けが込んでこないのは、ただの偶然なのだろうが、それだけに、なかなかやめられないというものあった。
そんな彼だったが、最近では馴染みのパチンコ屋の店員からも、
「ああ、あの人、ここ一週間くらい来てないですね」
作品名:回帰のターニングポイント 作家名:森本晃次