小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

覚悟の証明

INDEX|8ページ/24ページ|

次のページ前のページ
 

 そのことがトラウマになっているとすると、狭い場所というのは、我々の高所や暗所を怖がる感覚と似ているのかも知れない。
「どこに向かって進んでいいのか分からない」
 という感覚に恐怖を感じるのだから、閉所恐怖症の場合は、
「どこに向かって進んでいいのか分からないどころか、それ以上に、動くことすらできない」
 ということであり。想像を絶する恐怖なのかも知れない。
 そんな恐怖症におけるいくつかの共通点も、それぞれの突出した恐怖には勝てないものなのかも知れない。
 例えば高所恐怖症などであれば、これも、
「子供の頃に高いところから落っこちた記憶が残っている」
 という経験的なことからトラウマとなり。恐怖を拭い去ることができなくなることなどザラにあるであろう、
「高いところに昇って足元を見ると、そこには、虫ほどの小さな人間が蠢いている」
 そんな印象を感じる。
「自分と本当は同じくらいの大きさの人が、あんなに小さく見えるということは、ここから落ちれば、ひとたまりもない」
 という意識に駆られるのだ。
 さすがに、そんな高いところから落ちたという経験はないので、トラウマの正体は、まるで、
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
 という程度のものであろう。
「高いところにいると、経験がなくても、身体の震えが止まらないくらいの恐怖を感じてしまう」
 という話を聞いたが、それはまさしくその通りであった。
 下を凝視できるほどの勇気はないが、もし、凝視できたとすれば、眩暈がすることだろう?
 映像技術にあるような、拡大や縮小、つまり、遠近感の瞬時の移行が、錯覚として網膜を揺さぶるかも知れない。
 眩暈がするというのは、そういう遠近感がマヒしたような錯覚を、足元から先に感じるからではないだろうか。
 しかし、下から見ている分にはそれほど怖いとは思わない。しかし、逆に自分が十階建ての建物の屋上にいたとしよう。その時に、下を見た時、三階建ての建物があり、その建物の屋上に誰かがいて、その人が下を見ているのを見た時、どう感じるというのだろう?
 普段であれば、三階から下を覗いているのくらい、別に怖いとは思わなくとも、
「十階から下を見下ろしていると、途中の人も自分より低いのが分かっていても、とても危険な気がするんだ。まるで、自分が手を伸ばせば届くはずのない距離であるにも関わらず、背中を押してしまい、そのままその人を突き飛ばしてしまうのではないか?」
 という錯覚に襲われるからだ。
「その時に一緒に、自分も落下するような気がする。その人は三階からなので、そこまで大けがはしないかも知れないが、十階から落ちるということは、確実に死を意味している」
 と感じるである。
 だから、高いところから見る景色というものに、恐怖を感じるのだろうと、松前は感じるようになった。
 閉所恐怖症も、暗所恐怖症も、似たような感じなのではないだろうか。
 高所恐怖症は同じ高所を同じ次元で感じることが錯覚となり、恐怖を煽ってしまうものなのだろうが、他の恐怖症は、同じ種類の恐怖症ではなく、他の恐怖症に影響を受けるものではないかと感じるのだった。
 そのことが分かってくると、自分が恐怖症というものに、感覚がマヒしているように思えてきた。
 だから、普段の生活に、恐怖も感じなければ、大きな変化も感じない。危険と裏腹な波乱万丈と言ってもいいような毎日を過ごしているのに、毎日が平穏に思えているのだ。しかもその平穏は普段の生活だけで、夢の中では逆に波乱万丈を感じているからなのか、特に最近、夢をよく見るように思えてきたのは不思議なことであった。
 夢というものと現実の境目が曖昧に感じられることで、夢で見たものなのか、現実なのかが分からなくなったしまっていたのは前述の通りだが、夢を見ることが怖いというわけではなく、あくまでもリアルなのは現実であって、その現実をいかに理解しようかというのは、松前にとっての問題だったのだ。
 そのことは、自分が研究している開発においても言えることであった。
 特にクスリの場合には、
「副作用」
 というものがある。
 そのほとんどは、薬を飲むことでできた抗体に対してのアレルギーというか、拒絶反応のようなものであるが、よほどのことがない限り、大きな問題になるはずのものではないはずだ。
「クスリを飲んでよくなるはずなのに、副作用に苦しめられるなどというのは、これほど本末転倒なことはないのではないか?」
 と言われることだが、実際には、副作用によって、健康被害に遭った人が、販売元を訴えているなどということは結構ある。
 そういう意味で、
「医薬品の開発には、副作用の問題は切っても切り離せないものだ」
 と言えるのではないだろうか
「副作用をなくそうと考えるのは、土台無理なことで、いかに副作用を抑えるかということが問題なのではないだろうか?」
 というものだ。
「副作用がまったくない薬など、もはや、薬としての効果がないと言ってもいいのではないか?」
 と言われるほど、副作用は本当に切っても切り離せないものではないだろうか。
 それを思うと、自分にとっていかにこの研究を真剣に行わなければいけないものなのかを思い知らされたような気がする。
「治験者になったのも、その覚悟が少しはあるからだ」
 と、自分にいい聞かせている松前だった。

                トラウマ

 松前は、治験者でありながら、開発者である。そのことは分かっていたが、開発をしている時は、どうしても自分が治験者であるということを忘れがちだった。
 本来ならそっちの方がよかったに違いない。なぜなら、開発をしている時に他のことが目に入らないという方が、それだけ集中しているということであり、余計なことを考えないで済む。だから、開発に邁進できるという発想もあるのであり、そのおかげで、毎日が充実し、気が付けばあっという間に日が過ぎているのである。
「一日一日は、結構充実していて、一日が終わった時は、それなりに長さを感じるのだが、一週間、一か月と過ごしているうちに、気が付けばあっという間に過ぎていた」
 と感じるようになったのだ。
 その感覚が次第に顕著になっていき、
「錯覚なのかな?」
 と思うほどになっていた。
 以前から、この感覚はあったのだが、ほとんど無意識で、気が付いた時に思い出すという程度だったものが、最近では、意識の中の優先順位が最初の方にあるようで、錯覚だと思うのもそのせいなのであろう。
 実は、これも一種の、
「副作用」
 であった。
 副作用というと、精神的なものよりも最初は肉体的なものから来るものだと思っていたので、少々の戸惑いがあった。今のところ肉体的には何もない。頭痛がしたり、吐き気を催したり、熱が出たりという、表に出てくる副作用は、今のところなかった。
 それだけに、錯覚が副作用だとは最初は思わなかった。
 だが、それを副作用だと感じるようになったのは、それこそ偶然によるものだと言ってもいいかも知れない。
作品名:覚悟の証明 作家名:森本晃次