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覚悟の証明

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「もし、自分がまわりを意識するようになり、まわりの視線に耐えられなくなるような状況に陥れば、どうなってしまうのだろう?」
 この恐ろしさは、きっと、何をしている時でも、このことばかりを気にしてしまい。何もできなくなってしまうことを暗示していた。
 それを理解しているだけに、余計に人と関わることが怖いのだ。自分が人と関わってしまって、最後は置き去りにされてしまうという光景は、想像を絶するものがあり、そう思うと、右にも左にも薦めなくなってしまう。
 そういえば、以前、それは夢だったと思うのだが、吊り橋を渡ろうとして、その中間くらいのところで、何を思ってか、下を向いてしまったのだった。眩暈を起こしてしまいそうな高さのその場所に、なぜ自分が佇んでいるのか、そのことを考え、後悔が襲ってきた。
「前に進むも、後ろに下がるにも地獄」
 そう思った時、何を考えたのか?
「前に進んだら、また帰ってくる時に同じ思いをしなければならない。それだったら、最初から戻っておくしかないのではないだろうか?」
 という思いであった。
 高所という判断力が鈍ってしまった状態では、そういう計算が判断に対しての優先順位の高い位置につけてしまう。それを思うと、なるべく、危機感を煽るようなシチュエーションに持っていくことを避けなければならないと思うのだった。
 普段は、そんなに考えたりはしない性格だったが、夢の世界になると、いつも自分がパニックになっているような気がしていた。
 そのパニックというのは、初めて感じることのはずなのに、
「以前にもどっかで」
 という、いわゆる、
「デジャブ―」
 のような感覚だったりするのだった。
 デジャブ―というのは、なぜ起こるのかということは、科学的には証明されていることではないという話を聞いたことがあるが、松前によっては、何となく感じるものがあると言ってもいいようなものだった。
「デジャブというのは、辻褄合わせなんじゃないかな?」
 という考えだったのだが、それがどういうことなのかというと、
「以前に、どこかで本当に見たことがあるような絵や写真がどこかに飾ってあったか何かして、無意識に覚えていることというのは、結構あるものだと思っている」
 ということは、
「無意識に見た絵や写真を、以前どこかで見たものとリンクさせているということではないか? だから、絵や写真を無意識にとはいえ、意識してしまったということであり、それが無意識であるがゆえの曖昧さが、デジャブという説明のつかない幻想を引き起こしているのかも知れない」
 というものだ。
 そこが、
「辻褄合わせ」
 であり、
「人間というものは、ある意味、このような辻褄合わせを絶えず繰り返す動物なのではないか?」
 と言えるのではないだろうか?
 そのため、夢の世界と、現実の世界とで頭の中が混乱してしまうことがあり、
「そもそも、現実世界の理不尽さや、不可解なことを感じた時、夢の中でその感情を緩和させるという形で、夢は自分のために役立っている」
 と思っていたが、
「実際には、現実世界の方が平和で、夢の世界が感情を煽るような状態になることもあるんだ」
 と思うと、夢の世界と、現実世界の境界線が曖昧に感じられ、
「ひょっとすると、この二つには境界線などなく、ただ、どちらかが表に出ている時は、どちらかが裏にいるというだけの。完全な表裏の関係というものと同じだと考えられないだろうか?」
 と思われるのだった。
 つまりは、この曖昧さがデジャブであり、
「辻褄合わせではないか?」
 という思いに繋がっているのではないかと思えた。
 夢の中で吊り橋が出てきたのも、ドラマなどを見ていて、
「吊り橋の上や、断崖絶壁などの危険が孕む究極の場所で、刑事が事件解決の口上を垂れているのを見たことがあったが、それは視聴者に対して、事件解決というクライマックスのシチュエーションをいやがうえにも恐ろしさという演出を掲げることで、よりリアルな場面にしようというもので、場所自体に深い意味はないんだ」
 と冷静に考えれば、すぐに分かることであろう。
 しかも、視聴者である我々が、ドラマ制作側の目論見に乗って、
「断崖絶壁や吊り橋の上では、究極の恐怖が待ち受けていて、それがクライマックスになるのだ」
 という思いを植え付けられてしまっていると言っても過言ではないだろう。
 特に人間によって言われる、
「三大恐怖症」
 の中に、
「高所」
 というのが含まれているではないか。
 つまり、
「下を見ると、恐ろしいと感じ、すぐに、谷底に落っこちるという場面を創造してしまう」
 それが、自分が落ちるという主観的な感情なのか、それともドラマで見るシーンのように、他人事のように映像として見ている光景なのか、夢の中はよりリアルな感じがすることで、前者なのではないかと思うのだった。
 三大恐怖症というと、「高所」、「閉所」、「暗所」の三つがあると言われている。
 閉所などは、それほど感じたことはなかったが、暗所と、高所はそれぞれに結び付いていると思うのは、松前だけであろうか?
 暗いところというと、何が怖いと言って、普段はなかなか遭遇できるわけではないだけに、あくまでも想像の域を出ることはないのだが、
「足元が一番の不安だ」
 と考えるものではないだろうか。
 つまり、何かを目の前にして歩いているとすれば、その場で急に真っ暗になってしまったことを想像してみればいい。
「今まで見えていたものが、本物だったのか?」
 という思いに至るのではないかと思ってしまう。
 今まで見ていた光景であれば、少々進んでみたりしても、穴があったり、つまずきそうな歩きにくい場所であったりということは少なくともなかったはずである。だから、普通に進んでも問題ないと思われるが、不安に煽られると、それまで考えていたことと違った不安に苛まれることだってあるのだ。
 たとえば、
「前から何かの動物の大群が突っ込んできたり、目の前を車が猛スピードで通過していて、衝突するかも知れない」
 と感じるかも知れないではないか。
 まったく何も見えないだけに、それを否定する力は自分にはない。そう思うと、一歩も進めなくなるではないか。
 そして、
「もし、一歩でも前に進んでしまうと、今度はどの方向が自分の記憶している方向なのか分からなくなってしまい、どこから来たのか、そしてどこに行こうとしているのか、まったく分からなくなってしまうような気がしてならない」
 と感じることだろう。
 これは吊り橋の上で、どっちに進むのかを迷っている感覚に似ている。そういう意味では、
「高所恐怖症と、暗所恐怖症はまったく違うもののように思えるが、肝心なところで繋がっているんだ」
 と思うのだ。
 閉所恐怖症にしてもそうだ。
 それほど恐怖だと感じていないが、何か昔のトラウマが残っている人には、これほど恐ろしいことはないだろう。
 入ることはできたが、出ることができなくなってしまった場所に入り込むというような経験は、子供の頃などに、少々お転婆や、ワンパクな子であれば、ありがちなことではないだろうか。
作品名:覚悟の証明 作家名:森本晃次