覚悟の証明
実際にやってみると、思ったよりも、うまくいっていた。副反応もなければ、体調が悪くなるということもなく、すこぶる順調。それに自信をつけた開発チームは、他の組織にも並行して売り込むように手配していたのだ。
だが、これには内部からも反対意見があった。
「国家にも内緒にしていることを、何も焦って売り込まなくてもいいのではないか?」
という意見も少なからずあった。
それでも、開発が考えていたのは、相手が組織だということである。少なくとも下手なことになっても、表に出ることはなく、うまく処理をしてくれるという考えからであるが、少なくとも反政府組織と言ってもいいようなところが相手なので、一筋縄ではいかないだろう。
自分たちの保身のためには、クーデターでも起こしかねないやつらを、甘く見てはいけないのだろうが、とりあえず今はうまくいっているのが、幸いだと言ってもいいだろう。
それでも、不安は何とかなりそうで、開発も順調だった。今のところは、順風満帆というところであった。
そんな中で、開発チームの中でも密かに臨床実験が行われた。しかし、それは強制でもなければ、
「誰かやってみたい人がいれば」
という程度のものだったが、名乗りを挙げたのは、開発チームの中でも比較的自信家と言われている男だった。
彼はいつも、
「俺は研究に自分なりの自信を持っているから、自分が実験台になることくらい、何ともない」
と言っていた。
さすがに今までは実験台になるような機会もなかったが、あったとすればなっていただろうか? このあたりは難しいところで、まわりも目も、
「あいつならやりそうだ」
という人もいれば、
「さすがにあいつでもやらないだろう」
という意見に分かれていた。
賛否でいえば、ほとんどの人は、
「そんな危険なことを推奨するわけにはいかない。後遺症が残れな、社会的な問題だし、頭の後遺症ともなれば、研究を続けていくこともできなくなるだろうから、本来であれば、研究員自身が、臨床試験の治験者になるということは、普通ならありえないはずなんだけどな」
という話をするだろう。
松前は、今は三十歳にも満たない、若手の有望研究者であるが、学生時代に一度病気で死の境を彷徨ったことがあった。
医者からは、
「五分五分というところかも知れませんね。死力を尽くして頑張ってみます」
と言って、医者が手術をしてくれた。
普通の医者であれば、
「危険な手術にはあまりかかわりたくない」
と感じるのが当たり前のことだが、この時の医者は、やる気十分だった。
もちろん、松前本人も、覚悟をしていた。
しかし、手術を施してもらわなければ、日に日に悪くなっていった場合、
「手術もできないほど悪化してしまう可能性がある。手術をするならば今しかない」
という、主治医の見解と、自分の身体を考えて、松前は覚悟を決めたのだった。
その時、医者は、
「延命とまではいかないが、少しでも様子を見るだけの時間に余裕があれば、救える命も、もっとたくさんあると思うんだ」
と言っていた。
松前が命を取り留めたのは、二人の信念があってこそのことであろうが、医者のいうように、
「病気の進行を何とか抑えて、その間に、最善の道を模索できるだけの時間稼ぎができるような薬があれば、もっとたくさんの命が救えるだろうに」
という思いを持って、助けてもらった命を、
「今度は自分が医者を助ける番だ」
ということで、助けてもらった命を、今度は自分が医者を助けられるような立場になるという意思で、今の開発チームに入ったのだ。
松前としては、
「一度死んだ命だ」
というくらいの覚悟を持っていた。
そういう意味では他の研究員とは立場が違っていると思っている。他の人にどのような事情があるのか分からない。このような研究室に来るのだから、
「ただ、大学で薬学を研究したから」
というだけの理由で入ってくるような人はいないだろう。
ここの研究員になるには、幹部の面接の前に、かなり身元調査が行われるという。ここを希望した人の中には、その身元調査ではじかれたという人も少なくはなく、面接以前にせっかく書類審査は通っているにも関わらず、不合格になる人もいた。
「そういえば、ここは、書類審査までの結果はすぐに出たのに、面接までにかなりの時間がかかったな」
と松前は思っていた。
まさかその間に、身辺調査が行われ、密かにはじかれた人がいたということを松前だけではなく、ほとんどの研究員が感じていたことだろう。
特に松前が掛かった病気は、数ある病気の中でも、その正体がほとんど知られていない。ここ最近、出てきた新興の病気でもないのは分かっている。なぜなら、この病気には遺伝性が見えているからだ。
それを証明したのも、松前親子で、松前の母親も松前と同じ病気で死んでいたのだ。
母親の時は、松前よりももっと深刻で、情報が皆無であると同時に、医学も今ほど進歩しているわけではなかった。しかも、今回の松前の時のように、
「手術をできるタイミングは決まっていて、タイミングを逃すと、取り返しのつかないことになる」
というのは、母親の時から分かっていた。
つまり、
「この病気というのは、進行がものすごく早い」
というこだったのだ。
そんな病気なので、手術を行う医者も、
「手術をするなら、今しかないんだ」
と言っていた。
子供だったが、松前はその言葉をハッキリと覚えている。
「他の先生の反対を押し切って手術をしてくれるんだ」
と思ったのだが、結果としては、助けることができなかった。
しかし、手術を施してくれた先生の言う通り、
「そのまま放っておいても、死ぬだけだ」
ということに変わりはなかったようだ。
したがって、この病気は、癌などと同じで、
「不治の病」
と呼ばれていた。
しかし、時代は進んでいき、今では、
「タイミングを逃さず手術を行えば、決して助けられない病気ではない」
と言われるようになってきた。
それが、いわゆる、
「医学の発展」
によるもので、ある薬品が開発されたことで、治療法がある程度決まってきて、医者は、そのマニュアルに沿って治療すれば、助かる可能性はぐんと上がると言われるようになってきた。
その薬品を開発したのが、他ならぬ、この開発チームで、自分が助かったのも、ここのおかげであった。
だから、松前には、
「母親の無念さと、自分が助かったという感謝の気持ちとで、この研究所に骨を埋めるつもりだ」
という覚悟が持てたのだった。
このことはほとんど誰も知らない。所長には話をしていたが、研究員や所長のさらに上の人には話していない。
研究員に話をすると、急にその瞬間から、自分を見る目が変わってくるというのが嫌だった。
さらに、所長よりももっと上の人ともなると、話すらしたこともなく、一研究員には会話ができるような立場の人ではないということだ。
所長よりも上の人というと、彼らはもう科学者ではない。むしろ政治家に近いだろう。自治体や政府に対して話をする人たちであり、自分たちとは一線を画していると言ってもいいだろう。