小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

覚悟の証明

INDEX|3ページ/24ページ|

次のページ前のページ
 

 創造主には、絶対に逆らうことができない。この発想はロボットにも当てはまることで、ロボット開発では必要不可欠な問題の一つである。
 ロボットという概念の黎明期に、
「フランケンシュタイン」
 の話がある。
 フランケンシュタインの話というのは、
「理想の人間を作ろうとして、悪魔を作ってしまった」
 というお話であり、人間に災いをもたらすものを作ってしまわないように、ロボットに組み込む人工知能の中には、
「人間を殺めてはいけない」
 あるいは、
「人間を助けなければならない」
「人間の命令を聞かなければならない」
 などというものを組み込む必要があるのだ。
 それが、黎明期の発想としてあったというのはすごいことであり、その発想がロボット工学を発展させることになったのであろう。
 しかも、この原則には、確固たる、
「優先順位」
 が存在する。
 ロボットが人間のいうことを聞かなければならないという条件と、人間を殺めてはならないという条件に優先順位がないとすれば、ロボットはどちらを選ぶだろう?
 つまり、
「あいつを殺せ」
 と命令すれば、命令に優先順位をつけてしまうと、相手を殺してしまうことになってしまう。
 だから、優先順位は当然、
「人を殺めてはいけない」
 というのが、高い位置にあるのだった。
 そういう意味で、この原則は基本的には三つなのだが、優先順位の組み合わせによって。いくつぃものパターンがある。
 それを、どれだけロボットに理解させるかということがロボット開発において大きな問題となるのだった。
 もう一つ、別に、
「フレーム問題」
 というのが存在するのだが、ここではとりあえず、そういう問題があるということで、触れないでおくことにしよう。
 ロボットと人間の関係が、そのまま人間と神様の関係になるのかというと、難しいところである。
 ひょっとすると、神様が人間をロボットのように扱っているのを、人間が自分たちの都合で、ロボットなるものを開発し、神のお株を奪うかのようなことをしていると分かれば、果たして許しておくであろうか?
 ロボット開発が進まないのは、そういう神の考え方が影響しているからなのかも知れない。
 そういう関係を踏まえて妖怪というものを考えた時、どうなるのだろうか?
 妖怪というのは、怖いものというイメージはあるが、人間よりも強く、妖術という術を使い、しかも、長寿であるということを考えると、まるで、
「神との対称物」
 という考え方もできるのではないだろうか。
 つまり、
「神を妖怪という架空の存在の生き物を模して、ディスっている」
 と言えるのではないだろうか?
 ギリシャ神話などに出てくる、
「オリンポスの神々」
 を見ていると、実にわがままなものであり、
 自分の思い通りにならなければ、相手が神であり人間であっても、簡単に滅ぼしてしまう。
 しかも、酒を煽り、女を抱く。
 全能の神と言われるゼウスにしても、自分が惚れた女が地上にいて、どこかの国の姫であったとして、ゼウスに抱かれたと知った国王は、姫を海に流してしまった。
 国王もやることがえげつないが、ゼウスはそれを見て、国王が治めている国を、海の神ポセイドンに命じ、一晩で海の底に沈めさせるという、恐ろしいことをやってのけた。
 本来なら、
「喧嘩両成敗」
 ということなのだろうが、ゼウスには逆らえないということで、ゼウスは、その女と子供を擁護する。
 すると、ゼウスの妻や、ゼウスに抱かれたことのあるオリンポスの女神たちの間にも。嫉妬という怒りがこみあげてきて、話をややこしくするのであった。
 これはギリシャ神話に限らず、神と人間の関係というのは、えてしてそんなものであり、「何が一体、正しいというのか?」
 という疑問を投げかけるような話になっているのだった。
 そもそも、こういう話でないと、物語としては面白くはないのだろうが、それにしても、神様というものが、ここまで欲深く、人間臭いとも言えるのは、
「人間を創造したのは神であるが、その神を創造したのは人間である」
 というような、まるで、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 というような発想に似ていると言えるのではないだろうか?
 それを考えると、神話の世界の人間と神の関係というのも、
「本当は、神も人間も同じようなものだと言ってもいいのではないか?」
 と言えるのではないだろうか。

                進行の早い病気

 不老不死というものを、実際に作ろうと、計画をしていたところも結構あるのではないだろうか。もちろん、高額な費用が掛かるし、競争相手がいれば、情報が漏れないようにしないといけないということもあるので、中には国家ぐるみのところもあったかも知れない。
 かのお国あたりは、怪しいものだが、果たしてどうなのか、気になるところではあるが、しかし、そんな薬を作るとしても、それを実用化するのは難しいだろう。
 何しろ、そんなクスリは誰もが欲しいと思うだろうが、何と言っても高額であることは間違いない。一般庶民に手が出せるものでもないだろう。
 それと、もう一つには、
「臨床実験ができるか?」
 という問題である。
 何といっても、物は、不老不死である。
 不老に関しては見た目や健康状態の検査である程度分かるだろう。筋肉の年齢であったり、骨の年齢、臓器の年齢も推定できるだけの科学力があるので、検証は十分にできるはずだ。
 しかし、不死に関しては、本当にできるだろうか?
 不死ということは、
「絶対に死なない」
 ということである。
 一体、いくつまで生きれば、不死と言えるのか? 永遠でなければいけないというのか?
 ということを考えていけば、百歳まで生きたということで、
「完成しました」
 ということにしてしまい、その翌年に死んでしまったというと、目も当てられない。
「では、二百歳まで生きなければいけないのか?」
 ということになると、今度は、その薬を開発している人が死んでしまう。
 それこそ浦島太郎のように、臨床実験が叶った時には、もう知っている人は誰もいないということになるだろう。
 そんな実験を誰が引き受けるというのだろう?
 考えてみれば、昔から新薬や医学の発展において、最初に人体実験された人は、本当に勇気が行ったことだろう。
 帝国主義などであれば、捕虜を使って、何とか実験を行うということが、非公式に行われていたことだろう。
 もちろん、陸戦協定で、そんなことは、捕虜の虐待ということで、許されていないのは当然のことだが、世が世なら、そんなことは関係ないと言った時代が本当に存在したのである。
 また、毒のある食べ物なども、世の中にはたくさんある。そういう意味で、
「最初にフグを食べた人は勇気が行っただろうな?」」
 と言われている。
 ふぐに限らず、危ない食物はたくさんある。彼らの犠牲のもとに、今の食生活が成り立っていると言っても過言ではないだろう。
 しかし、不老不死のクスリでもう一つ気になるのは、
「果たして、そんな薬を作って、果たして売れるのだろうか?」
 という問題であった。
作品名:覚悟の証明 作家名:森本晃次