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覚悟の証明

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 そもそも、最初に苛められていた亀を浦島太郎が助けたというが、本当は、魚釣りをしていて、釣れたのが、そのカメだっただけではないだろうか。
 挿絵などに出てくる浦島太郎の姿は、腰からびくを下げていて、手には釣り竿を持っているではないか。釣りをしていたと考える方が自然である。
 浦島太郎を竜宮城に連れていったのも、一種のナンパだったのではないだろうか?
 そして、浦島太郎は竜宮から地表に帰って、開けた玉手箱で、おじいさんになったと言われているが、そのまま鶴になったと癇癪はできないのだろうか?
 戻った世界が七百年後だということで、おじいさんになったと勝手に伝わっただけだとすれば、おとぎ話も長年経ってしまうとどのように伝わるか分かったものではない。
「浦島太郎の話は、突っ込めばいくらでも、発想が膨らんでくる」
 と言われているがそうに違いない。
 だから、結局、どこで切っても話は矛盾したままなのではないか。最後までそのまま伝えて、ハッピーエンドになったとしても、
「じゃあ、あの竜宮城は何だったんだ?」
 ということになる。
「せっかく極楽浄土が存在し、浦島太郎と乙姫はそこで永遠に愛し合っていればいいではないか?」
 と、なぜ思わないのだろう。
 ひょっとして、竜宮城は、死後の世界、いわゆる、
「黄泉の国」
 であり、浦島太郎は、一度死んで、その世界に行ってしまったが、乙姫様が気の毒に思って、浦島太郎を生き返らせたと考えることもできう。
 だが、そうなると、いろいろ矛盾が出てくる、特に宗教的な人たちから見れば、
「断じて許すことのできない逸話」
 として断罪に値するものではないだろうか。
 この発想は少しオカルト色の強い話になってしまい、そもそもの浦島太郎の話を完全にゆがめている話になってしまう。どちらかというと、魑魅魍魎的な話になり、
「乙姫様は、神様か、その逆に妖怪変化のたぐいではないだろうか?」
 と思われても仕方のないことになる。
 もし、浦島太郎が見たのが、黄泉の国であったとすれば、他言は厳禁のはずである。
 そのために、玉手箱を渡して、浦島太郎の記憶を消してしまったという考えも生まれてくる。
 そもそも、白い煙が出てきたという発想では、
「おじいさんになったというよりも、記憶喪失にさせる煙が出てきた」
 と考えた方が、おとぎ話っぽいのではないかと思われる。
「ねえ、浦島太郎って、全国に似たような話が伝わっているんでしょう?」
 と思っている人も多いだろう。
「浦島太郎に限らず、桃太郎などの話もいっぱい残っているさ。気温的にキビ団子というのは、穀物のキビから来ているとも言えるが、岡山県地方の吉備という昔の国名から来ているとも言われているからね。しかも、岡山というと、桃が名産でもあるし、実際に吉備団子というお土産もあったりするので、岡山県ゆかりの話だと考えても無理もないことだよね」
 と言われている。
「でも、桃太郎が鬼退治をしたという鬼ヶ島なんだけど、全国に、ここが鬼ヶ島の由来だというところが結構あるよね。山口県にもあるし、鹿児島県などの離島にもある。特に鹿児島県などの鬼界が島と呼ばれるところは、元々流罪の島だったようで、流人や罪人、さらには海賊もいただろうから、そんな連中を見て、あれは鬼ではないかということから、浦島太郎の話が生まれたんじゃないのかな?」
「全世界には、縁もゆかりもないはずなのに、古来からおなじようなものが存在しているという七不思議がある、宇宙人がそれぞれの土地に文明を与えたのではないかと言われているけど、日本だって、同じように誰か旅人が、伝説を伝え歩いたのではないかと思えば、いろいろなところに類似の話が残っているのも、無理もないことのように思いますね」
 というような会話が聞こえてくるようだった。
 浦島太郎にしても、桃太郎にしてもそうだが、
「開けてはいけない」
 と言われて開けてしまったことで不幸になる話で告示の話がある。
 前述の蛤女房と鶴の恩返しの話など、
「鶴と蛤の違い」
 というだけで、教訓であったり、内容も同じようなものだった。
 登場人物が違っているのは、それおれにあまりにも似ていてはおかしいという、昔の人なりの考えがあったのかも知れない。
「昔の人の考え方というのは、実に面白いものだ」
 と言えるのではないだろうか。
 そんな中で不老不死という考え方が中国と日本とでは、かなり違っているのではないだろうか。
 そもそも、西遊記における三蔵玄奘の肉を食らおうというのは人間ではない。妖怪が人間に化けて、人間を食べようという発想なのだ。
 大体、妖怪というのは、すでに何千年と生きている生き物なのではないだろうか? 主人公の孫悟空だって、お釈迦様の怒りを買って、石に何千年も閉じ込められていたというではないか。それを考えれば、いまさら不老不死を手に入れたところで、何が嬉しいというのかと考えるのは、人間の考えが浅はかだからなのだろうか?
 そんなことを考えていると、ただ、それはあくまでも、妖怪が妖怪の立場から言っているからである。
 人間がセミなどのような短命の生き物のことを、いちいち、
「一か月も生きられないなんて、かわいそうだ」
 と思うだろうか?
 人間はセミからみれば、不老不死に限りなく近く見えるだろうが、当の人間は、自分たちの寿命を決して長いとは思っていないだろう。
 短いとも思っていないかも知れないが、少しでも長生きしたいという考えが一種の欲であるならば、それを人間としてではなく、妖怪の立場を借りて、自分の願望を表そうとして書いたのが西遊記だとすると、理屈も分からなくもない。
 しかし、すべての人間に受け入れられる発想ではないだろう。
「まわりの人が皆死んでしまって、自分だけが生き残って、何が楽しいというのだろうか?」
 もちろん、専制君主のような独裁者であったなら、毎日ハーレムのような生活が過ごせるのは、欲であって、それ以外にはないものだ。
 欲というのはいったん持つと果てしないものであり、発想は猪突猛進となってしまう。
 普通にまともだと言われる発想が持てなくなり、そうなるからこそ、専制君主は、独裁に走ると言ってもいいだろう。
 ただ、生きているだけというのであれば、死んだ方がマシだと思うのが人間ではないだろうか?
 確かにあの世というところがどういうところなのかは分からないので、死んだ人間が知っている者同士。出会えるとは限らない。
 それでも、生き地獄には耐えられないと思うことで、死を選ぶ人もいるのだろう。
 宗教では、
「自殺は許されない」
 という発想のものが多いが、なぜなのだろう?
 人を殺めてはいけないとは当然のことであるが、自分で自分の命を断つことを戒めるのはなぜなのだろうか?
 考え方として、
「人間は、等しく何かのために生きているものであり、それは、神様のためだ」
 というのが、究極の宗教なのではないだろうか。
 誰かのためにさせられているという意識を持たないように人間が動くことができるのは、人間というものを創造したのが、神様だという発想から来ているのだろう。
作品名:覚悟の証明 作家名:森本晃次