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覚悟の証明

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 たぶん、その時に感じたのは、夢に見たこととシンクロしていたのではないだろうか。カプグラ症候群などという言葉がついていて、それが、社会現象を引き起こす原因にもなっているなど、思いもしなかった、
 あくまでも、子供の頃に見た特撮の発想でしかないと思っていた自分が本を読んで、さらにその思いを深くしたことが、後々、開発チームに入ることになった一つの要因になったと言っても過言ではないだろう。
 そんなカプグラ症候群が自分の頭からなかなか消えてくれないのは、これを元々、トラウマとひっかけていたからだろう。
 自分にとってのトラウマとして、一番大きな印章として存在しているのは、
「夢としての感覚」
 であった。
 目が覚めるにしたがって忘れていくのが夢だと思っている。しかも、忘れたくないと思っていることを忘れてしまうくせに、
「もう二度と見たくもない」
 ということをしつこく覚えている。
 それが、トラウマとなっているのだろうが、今度は、もう一度見てみたいと思うであろう夢は、もう二度と見ることができないというのが、夢のメカニズムであった。
 それほど夢というのは、、ある意味、
「都合よくできているもの」
 であり、その都合のよさは、必ずしも、見ている人間の意志によるものではないということだ。むしろ、夢を見ている人間にとって、いいことではなく、却って悪い方に誘われているかのようなものなのであった。
 そんなカプグラ症候群を感じるようになったのは、夢を見たからだと思うのだが、今から思えば少し、腑に落ちない部分があったのだ。
 というのも、この夢を見た時期が問題であり、一体いつのことだったのかということを考えると、夢ということもあり、曖昧だった。
 ただ気になっているのは、カプグラ症候群を意識するようになった特撮番組よりも前に、その夢を見た気がしていたのだ。
 つまり、特撮を見た時、
「過去にどこかで見たような気がする」
 という、まるでデジャブのような感覚に襲われたのだ。
 どうしてなのか、子供の頃には分からなかったが、心のどこかでそのことを気にしていたようだ。
 そして、それがなぜなのかということを考えてみたが、なかなか結論が出てこない。
 ただ、デジャブという現象には意識があったので、それに近いものではないかという感覚はあったのだ。
 ということを考えると、
「カプグラ症候群ということに対して、特別な意識は持っていなかったが、自分がその環境に入り込むと、まるで前から知っていたかのような気がするものだ」
 という感覚になるようだった。
 その感覚が曖昧なために、
「意識したことがあったような気がする」
 というハッキリとした意識にならないのだろう。
 心理学的な現象であったり、障害であったりするものは、えてして、そういうものなのではないだろうか。
 自分にとって、このカプグラ症候群というものは、曖昧な意識であること、さらに夢に見たことで、曖昧な意識を裏付けているような気がして、そのせいもあってか、
「デジャブというのは、曖昧なものなのではないか?」
 という思いに至り、その思いが、
「辻褄合わせ」
 という感覚に結び付いてくるのだろう。
 デジャブという現象は、ハッキリと科学で証明されているわけではない。
 いろいろな考え方がある中で、松前としては、
「本当は最初から分かっていたもので、それを紡いでいるのが、遺伝子というものの働きではないか?」
 と感じていた。
 今まで見たことがないと思っているはずなのに、なぜか、
「どこかで見たことがあったような気がする」
 と感じるのだ。
 どちらの感覚が強いのかというと、前者の方である。
 だから、
「どこかで見たことがある」
 という感覚が錯覚であり、
「なぜ、そのような錯覚を起こすのか?」
 ということを考えるということになるのだろう。
 そこで思いついたのが、
「辻褄を合わせているからではないか?」
 ということであった。
 絵は写真で見たものが、漠然として意識の中にあったとすれば、それが自分の中にある意識と結びついて、以前まったく違う場所に行った時に感じたことと、かつて見た印象に残っている絵や写真がシンクロし、頭の中によみがえってくる気がするのではないかということであった。
 本当なら、違う景色で見たのかも知れないが、それでは納得のいかない感覚に陥り、その辻褄を合わせようと、見てもいないものを見たような感覚になるのではないかと考えていた。
 この説は、実は有力な説としてあるものだということで、それは自分の頭が冴えているというわけではなく、単純に、
「多数派の意識が自分にはあるというだけのことだ」
 という冷めた目で見ているだけであった。
 そもそも、何か不可解な現象であったり、症候群と呼ばれるものは、錯覚から始まっているのではないか。
 錯覚というものもいろいろとあり、以前聞いた話で興味深いものが、
「サッチャー効果」
 と呼ばれるものであった。
 サッチャー効果というのは、絵や写真で、真正面から見たものを、今度は上下を反転させて、見てみると、まったく違うものに見えるという現象である。
 本当であれば、
「正対しているものが逆さまに写っているという感覚から、よく分からないものが映っていると思っているのに、逆さにすれば、また全然違った、しかも、理屈が分かるような絵が浮かび上がってことで、自分が錯覚を起こしている」
 ということに気づくという現象である。
 そもそもが、かつてのイギリスの女性首相である、
「鉄の女」
 と称された、
「マーガレットサッチャー」
 の写真から来ていると言われている。
 これは完全に錯覚であり、別名として、
「サッチャー錯視」
 と言われている。
 錯覚というのは、元々、人間が目の前にあるものを最初から、
「こういうものだ」
 ということを前もって想像する力があるから、その感覚と違った時に、錯覚であると感じるのだろう。
 想像もできない生き物に、錯覚というものを求める方が、おかしいというものである。
 人間というものが、他の動物と違っている価格として、人間の方が優れているものがほとんどなのだろうが、動物の方が優れていることも実は少なくない。
 本能という意味で動物は人間よりも強く、さらに人間にも存在はするが、動物のそれとは比較にならないくらいの低俗性であるということを示しているのが、
「再生能力」
 というものではないだろうか。
 動物にはクスリなどというものはなく、あるとしても、天然のクスリとして、摂取できるものだけしかないだろう。
 人間が今後開発する薬を考えるうえで、この
「再生能力というもの」
 を無視することはできないであろう。

                 大団円

 松前は、どうしても、コウモリという動物の存在を無視できないでいた。
 一番気になるのは、
「目が見えないのに、超音波を出すことで、自分がちゃんt動いているということを分かっている」
 ということである。
 コウモリをまるで障害者の代表のように考えればどうだろうか?
作品名:覚悟の証明 作家名:森本晃次