小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

覚悟の証明

INDEX|20ページ/24ページ|

次のページ前のページ
 

 と言いたいところだったが、さすがにあざとい感じがしたので、パッと頭に浮かんだおかずとして、
「タマゴ焼き」
 と答えた。
 子供の頃に作ってもらったお弁当で一番のお気に入りは、
「チキンの照り焼き」
 だったのだが、中学に入ってから、手作りお弁当というものから遠ざかってしまっていて、それを新たに作ってくれる人ができると、かつてのお弁当で思い出すのは、チキンの照り焼きではなく、タマゴ焼きだったのだ。
 ただ、今になって思い出すことというと、お弁当というよりも、毎朝の朝食だった。
 判で押したように、毎日のように、白飯と、味噌汁。たまに納豆や冷ややっこの小鉢があるだけだった。
 みそ汁もとりあえず、毎日同じものにならないように工夫はしていたが、子供のこrおから高校の頃まで毎日同じメニューだった。
「さすがに悔い飽きた。最初の一年で、見るのも嫌になってきた」
 と思っていた。
 そのせいで、一日の中で朝食の時間が、朝の時間の中で一番嫌な時間帯だった。
 朝目が覚めてから、
「学校に行かなければいけない」
 という憂鬱な気持ちよりも、さらに嫌だったのだ。
 大学生になってからは、家では絶対に朝食は食べない。他で食べる時も、絶対に洋食だった。
 特に味噌汁だけは嫌だと思っていた。
「親は、自分よりも前から、毎日同じメニューでよく我慢ができるよな」
 と思っていた。
 一体、どうしてなのだろう?
 そういえば、今回の研究も、そのあたりから始まったような気がする。
「自分の親は、どうしてあんなに毎日同じものを食べていて、飽きなかったんだろう?」
 という思いであった。
 普通だったら、あれほど、毎日同じものを食べさせられていれば、見るのも嫌になりそうなものなのに、と思うのも当然であった、しかし、そうではないということは、これは一度子供の頃に感じたことだったが、
「俺の親は、人間ではないのではないか?」
 ということであった。
 人間の川を被った、人間ではない悪魔であったり、アンドロイドか何かの類ではないかと思うと、ゾッとしてきたものだった。
 小学生だったので、一時期ではあったが、本当に信じたものだ。
 そして感じたことは、
「息子である俺を洗脳しようと思っているのではないか?」
 ということであった。
 もっとも、息子一人を洗脳したところでどうなるものでもない。ただ、何か大きな事業のための実験台として自分が使われている、という考えもないではなかった。
 ただ、この考えがある時に読んだ本に書いてあった心理学的な話と酷似していたことが印象に残った。
 普通なら、こんな話、小学生が気になって読むわけもないのだが、どうも親が洗脳しているように感じたところから、感じたことであった。
 この話は二十世紀に入ってから、心理学として提唱された精神疾患の一種で、
「カプグラ症候群」
 というものである。
 映画やドラマなどで、時々題材になるようなことで、現象はある程度限られているのに、原因となったり、その症状は滝に渡るのではないかと言われているものではないだろうか?
 このお話は、
「自分に近しい人、家族、恋人、親友などが、うり二つの替え玉に入れ替わっているという妄想を抱いてしまうこと」
 という心理現象を、精神疾患として考えるという発想である。
 特撮などでは、よくこの発想は用いられる。
 世界征服を狙う悪の結社が、次々と人間を自分たちの手先に変えていっているという発想は、よくあったものだ。
 これも、ロボット工学三原則と並び、同じ頃にカプグラ症候群のような話が多くあり、カプグラ症候群を知らない人でも、感受性の強い人が、特撮などを見て、それを夢になど見たとすれば、それがトラウマとして残ったとしても、無理もないことだろう。
 小学生が見る番組には、ある程度、深い印象を与えてしまうことで、見たくないものを見てしまったかのような感覚に陥り、カプグラ症候群などという稀な現象も、次第にそれほど珍しくないものとして、今では認識されるようになったのではないだろうか。
 そういう意味で、テレビ制作の罪は重いのかも知れないが、まずは、社会情勢や、その頃の子供の精神状態など、いかに深く考えなければいけないものなのということを考えさせられるものではないかと言えるのではないだろうか。
 ただ、カプグラ症候群というものが、よく言われるようになってから、小学生時代を迎えた松前にとって、
「カプグラ症候群」
 という言葉は知らなくても、そのような心理状態は分かっていた。
 しかし、誰がカプグラ症候群に掛かっているかなどということは、なかなか分かりにくいものだ。
 特に大人であれば、
「そんな子供じみたことを信じているなどということを知られると、自分の社会的立場はないかも知れない」
 と思われた。
 社会的立場というのは曖昧なもので、
「子供の頃から培われてきたことで、どうしてそんなに今になってまで消えない妄想なのかと思っているが、その状況は中途半端なものなのではないだろうか」
 と考えていた。
 自分がいかに、
「夢の内容を覚えていないのか」
 ということを証明しているようなものである。
 子供の頃は、
「いつも夢を見ていた」
 という感覚が残っている。
 しかし、実際に覚えている内容は、大人になってからと同じである。
 つまり、
「覚えていることは同じなのに、忘れてしまったことは、子供の頃の方が多かった」
 ということであるが、それは、
「忘れてしまったこと」
 というよりも、
「忘れてしまう確率の方が大きかった」
 ということであり。この感覚は、
「子供の頃の方が、夢をたくさん見ていた」
 という感覚に結び付き、
「夢をたくさん見るのだから、それだけ忘れてしまった確率は高いのではないだろうか?」
 という感覚なので、言い方は的を得ているかどうか分からないが、
「プラマイゼロ」
 という感覚が頭をもたげた。
「プラマイゼロ」
 というのは、見た目、まったく何もなかったかのように感じられることであるが、実際には、プラスとマイナスが確実に存在している。
 まるで、小学校で習った、
「見かけの光合成」
 という言葉が頭をもたげた。
「酸素を吸って、二酸化炭素を出すのが、呼吸というものだが、光合成は逆に、二酸化炭素を吸って、酸素を放出している。同じ植物によって行われるので、これを見かけということを使って表現することに対し、子供心に違和感があったが、気になる言葉の一つだった」
 ということを印象深く覚えていたのだ。
 それにしても、自分のまわりの人が信用できなくなるという感覚は何かに似ているような気がしていた。
「そうだ、麻薬中毒の時の禁断症状ではないか?」
 というこの発想は、少し大人になって感じたことだった。
 さすがに小学生が麻薬をいきなり発想するというのもおかしなもので、この発想が生まれたことで、自分が小学生の頃に感じたカプグラ症候群をまるでトラウマのように、潜在的に覚えていたということであろうか。
 ちょうど、麻薬のことを考えている時に、ちょうど潜在していた感覚の、
「カプグラ症候群」
 が意識として入り込んできたのかも知れない。
作品名:覚悟の証明 作家名:森本晃次