覚悟の証明
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年九月時点のものです。それ以降は未来のお話です。
昔むかし
昔から、
「あれば、億万長者になれたり、あるいは、天下を掌握できるかも知れない」
と言われるものに、
「不老不死のクスリ」
というものがある。
中国で書かれた西遊記などもそうではないか。
「高尚な坊主の肉を食らえば、不老不死の力を得ることができるということで、天竺に向かおうとする三蔵玄奘を、道々にて、妖怪が襲ってくるというのも、すべては不老不死のためである。
しかし、これはあくまでも妖怪の話であり、果たして人間ではどうなのだろう?
ただ中国は、不老不死に対して並々ならぬ感情があるのは確かであろう。
理想のユートピアと呼ばれる、
「桃源郷」
では、不老不死の果実があるという。
やはり、不老不死という考えは極楽に通じるものがあるのだろうか?
ただ、日本では、あまり不老不死という意識はないのか、それほど、
「不老不死を求めて」
という話は聞いたことがない。
それどころか、浦島太郎の話などでは、竜宮城から帰った太郎は、戻ってみれば、そこは自分が知っている人が一人もいないという状態に、途方に暮れてしまったではないか。
確かにいきなり七百年後にポンと置いてけぼりにされてしまったのであるから、どんなリアクションをしていいものか、というのが、最初の正直なところであろう。
「不老不死だと思えばいいではないか?」
という問題でもない。
そうなのだ。この浦島太郎が竜宮城から戻ってきて、七百年後に戻ってきたということは、何を意味しているのかというと、
「不老不死への警鐘を鳴らしている」
と言ってもいいのではないだろうか。
七百年後に突然現れたわけではなく、ずっといたと考えたらいいというわけでもない。もし、死なずにいたと考えたとしても、他の人の寿命は皆長く生きたとしても、百年がいいところだ。
自分は年も取らなかったとすれば、普通なら、まわりから気持ち悪がられるだろう。仲間外れにされるか、それだけならいいが、妖怪の類だと言われ、殺される運命にあるかも知れない。
いや、不老不死なのだから、殺そうとしても死なないかも知れない。
万が一、まわりが自分を認めてくれたとしても、自分のまわりの人はどんどん老いていって、いずれは死んでしまう。一人、二人と、どんどん死んでいく。そして、一緒に生活をしてきたまわりの連中は皆死んでしまって。まわりは子供の世代になるのだ。
すでに、太郎は時代遅れの人間と言ってもいいだろう。まるで、学校でいえば、何十年も留年しているような感覚ではないか。子供の世代。孫の世代とどんどん時代は先に進んで行っても、自分だけは死ぬこともできなければ、生きている価値がどこにあるというのか、ただあるのは、孤独と絶望だけである。
これが、
「不老不死の正体」
である。
「なぜこんな思いをしなければいけないのか? まるで自分は妖怪になってしまったようだ。世の中に何の楽しみがあり、希望があるというのか、これこそ、生かさず殺さずの生殺しのようなものではないか」
という憤りがあるだけだった。
しかも、浦島太郎の話は、本当はまだ続きがあった。
一般的に知られている話は、
「竜宮城から帰ってきてみたら、自分の知っている人が誰もいない街になっていて、途方に暮れてしまった太郎は、乙姫様から渡された、決して開けてはいけないということでもらったはずの玉手箱を開けたことで、おじいさんになってしまった」
という話であった。
ただ、これには、賛否両論があり、
「おかしいのではないか?」
と言われていたのだ。
そもそも、おとぎ話というのは、
「何か、いいことをしたので、その報いを与えられ、最後はハッピーエンドになる」
という話であるか、
「たとえば、欲の皮の突っ張った人がいて、その人が私利私欲のために行動したことが、アダとなってしまうか」
という話であったり、
「開けてはいけないと言われているものを開けてしまい、罰を受けてしまうか」
という話のどれかに当てはまるものではないかと思うのだが、浦島太郎のお話は、その中でも、
「いいことをして、カメを助けたのに、最後にはおじいさんになってしまう」
という報われない話に疑問を感じる人も多いことだろう。
だが、よく考えてみれば、三つ目の開けてはいけないものを開けてしまったという話も、そもそも、いいことをしてその報いがあり、その後で、
「開けてはいけない」
と言われたものを、好奇心に負けて開けてしまったという話も主流ではないか。
それが、
「鶴の恩返し」
であったり、
「蛤女房」
などの話を見ていれば、まさにそうである。
そういう意味では、浦島太郎の話も、
「おじいさんになってしまった」
というところで終わってしまったとしても、別に不思議ではない。
ただ。その世界が知っている人が誰もいない世界だということで、絶望の中の絶望を味わうという意味では、
「あんまりだ」
と言われても仕方がないだろう。
だが、実際には話の途中があった。
「浦島太郎を慕っている乙姫様が、カメになって地上にやってきて。鶴になった浦島太郎と二人で末永く幸せに暮らしたという話」
が、本当のラストなのである。
「鶴は千年、カメは万年」
と言われているのは、ひょっとするとここから来ているのかも知れない。
だが、ここで冷静に考えてみれば、このお話も最後に行きつく発想というのは、
「不老不死」
の話ではないか。
千年に万年と、限りはあるが、百年も生きられない人間からみれば、不老不死も同じなのかも知れない。
それにしても、一般的に知られている生物の中でも、植物以外で、百年という寿命は、結構長いのではないだろうか。
成虫になってから表に出てきて、一か月も生きられないセミに比べれば、人間こそが、不老不死にみえるのではないだろうか。
それを思うと、人間が不老不死を望むというのは、おこがましいと言ってもいいのではないだろうか?
ちなみに、浦島太郎の話というのは、結構いろいろパロディのようなオマージュ小説を書いている人もいたりするらしい。中には、
「乙姫様というのは、実はカメが化けたものだ」
というもので、すべてが、カメの自作自演とも言われている。
昔むかし
昔から、
「あれば、億万長者になれたり、あるいは、天下を掌握できるかも知れない」
と言われるものに、
「不老不死のクスリ」
というものがある。
中国で書かれた西遊記などもそうではないか。
「高尚な坊主の肉を食らえば、不老不死の力を得ることができるということで、天竺に向かおうとする三蔵玄奘を、道々にて、妖怪が襲ってくるというのも、すべては不老不死のためである。
しかし、これはあくまでも妖怪の話であり、果たして人間ではどうなのだろう?
ただ中国は、不老不死に対して並々ならぬ感情があるのは確かであろう。
理想のユートピアと呼ばれる、
「桃源郷」
では、不老不死の果実があるという。
やはり、不老不死という考えは極楽に通じるものがあるのだろうか?
ただ、日本では、あまり不老不死という意識はないのか、それほど、
「不老不死を求めて」
という話は聞いたことがない。
それどころか、浦島太郎の話などでは、竜宮城から帰った太郎は、戻ってみれば、そこは自分が知っている人が一人もいないという状態に、途方に暮れてしまったではないか。
確かにいきなり七百年後にポンと置いてけぼりにされてしまったのであるから、どんなリアクションをしていいものか、というのが、最初の正直なところであろう。
「不老不死だと思えばいいではないか?」
という問題でもない。
そうなのだ。この浦島太郎が竜宮城から戻ってきて、七百年後に戻ってきたということは、何を意味しているのかというと、
「不老不死への警鐘を鳴らしている」
と言ってもいいのではないだろうか。
七百年後に突然現れたわけではなく、ずっといたと考えたらいいというわけでもない。もし、死なずにいたと考えたとしても、他の人の寿命は皆長く生きたとしても、百年がいいところだ。
自分は年も取らなかったとすれば、普通なら、まわりから気持ち悪がられるだろう。仲間外れにされるか、それだけならいいが、妖怪の類だと言われ、殺される運命にあるかも知れない。
いや、不老不死なのだから、殺そうとしても死なないかも知れない。
万が一、まわりが自分を認めてくれたとしても、自分のまわりの人はどんどん老いていって、いずれは死んでしまう。一人、二人と、どんどん死んでいく。そして、一緒に生活をしてきたまわりの連中は皆死んでしまって。まわりは子供の世代になるのだ。
すでに、太郎は時代遅れの人間と言ってもいいだろう。まるで、学校でいえば、何十年も留年しているような感覚ではないか。子供の世代。孫の世代とどんどん時代は先に進んで行っても、自分だけは死ぬこともできなければ、生きている価値がどこにあるというのか、ただあるのは、孤独と絶望だけである。
これが、
「不老不死の正体」
である。
「なぜこんな思いをしなければいけないのか? まるで自分は妖怪になってしまったようだ。世の中に何の楽しみがあり、希望があるというのか、これこそ、生かさず殺さずの生殺しのようなものではないか」
という憤りがあるだけだった。
しかも、浦島太郎の話は、本当はまだ続きがあった。
一般的に知られている話は、
「竜宮城から帰ってきてみたら、自分の知っている人が誰もいない街になっていて、途方に暮れてしまった太郎は、乙姫様から渡された、決して開けてはいけないということでもらったはずの玉手箱を開けたことで、おじいさんになってしまった」
という話であった。
ただ、これには、賛否両論があり、
「おかしいのではないか?」
と言われていたのだ。
そもそも、おとぎ話というのは、
「何か、いいことをしたので、その報いを与えられ、最後はハッピーエンドになる」
という話であるか、
「たとえば、欲の皮の突っ張った人がいて、その人が私利私欲のために行動したことが、アダとなってしまうか」
という話であったり、
「開けてはいけないと言われているものを開けてしまい、罰を受けてしまうか」
という話のどれかに当てはまるものではないかと思うのだが、浦島太郎のお話は、その中でも、
「いいことをして、カメを助けたのに、最後にはおじいさんになってしまう」
という報われない話に疑問を感じる人も多いことだろう。
だが、よく考えてみれば、三つ目の開けてはいけないものを開けてしまったという話も、そもそも、いいことをしてその報いがあり、その後で、
「開けてはいけない」
と言われたものを、好奇心に負けて開けてしまったという話も主流ではないか。
それが、
「鶴の恩返し」
であったり、
「蛤女房」
などの話を見ていれば、まさにそうである。
そういう意味では、浦島太郎の話も、
「おじいさんになってしまった」
というところで終わってしまったとしても、別に不思議ではない。
ただ。その世界が知っている人が誰もいない世界だということで、絶望の中の絶望を味わうという意味では、
「あんまりだ」
と言われても仕方がないだろう。
だが、実際には話の途中があった。
「浦島太郎を慕っている乙姫様が、カメになって地上にやってきて。鶴になった浦島太郎と二人で末永く幸せに暮らしたという話」
が、本当のラストなのである。
「鶴は千年、カメは万年」
と言われているのは、ひょっとするとここから来ているのかも知れない。
だが、ここで冷静に考えてみれば、このお話も最後に行きつく発想というのは、
「不老不死」
の話ではないか。
千年に万年と、限りはあるが、百年も生きられない人間からみれば、不老不死も同じなのかも知れない。
それにしても、一般的に知られている生物の中でも、植物以外で、百年という寿命は、結構長いのではないだろうか。
成虫になってから表に出てきて、一か月も生きられないセミに比べれば、人間こそが、不老不死にみえるのではないだろうか。
それを思うと、人間が不老不死を望むというのは、おこがましいと言ってもいいのではないだろうか?
ちなみに、浦島太郎の話というのは、結構いろいろパロディのようなオマージュ小説を書いている人もいたりするらしい。中には、
「乙姫様というのは、実はカメが化けたものだ」
というもので、すべてが、カメの自作自演とも言われている。