覚悟の証明
赤松には、今のところ好きな女性もいるわけでもなく、別に女性に対して興味があるわけではないので、気になっているのは、妹のことだけだった。
その妹を信頼のおける相手である松前に託すことができたことで、赤松としては、
「肩の荷が下りた」
という気分である。
まだまだ結婚までは先のことであるが、松前とすれば、
「結婚相手にとって、不足はない」
と思っていて、
「結婚するなら、ゆいしかいない」
とまで思っているようだった。
ただ、松前は自分が治験者になっていることを、赤松やゆいと一緒にいる時には、気持ち高ぶっていて、正直忘れかけることが多かった。
それだけ、今まで女性と付き合った経験もなく、人を好きになったという感覚も味わったことはないほどにウブだったのだ。
ウブだという意味でいけば、ゆいも赤松も同じ感覚なのかも知れないが、赤松の場合は、
「女性を好きになるという感覚が分からない」
という意味で、少し松前とは違っていた。
コウモリの研究
松前は、最近の研究で、コウモリの研究を始めた。ロボット工学を研究する中で、なぜコウモリに目を付けたのかというと、
「コウモリというものは、卑怯な動物というレッテルを貼られていて、そのレッテルのために、いつも暗くて誰もいないところにいて、仲間外れにされているにも関わらず、その能力は、人間や他の動物にはないものを持っている」
と感じたからだった。
そもそも、コウモリが、
「卑怯なもの」
というイメージがついたのは、イソップ寓話の中に書かれている、
「卑怯なコウモリ」
という話から始まっている。
このお話は、
「昔、獣と鳥の一族が戦争をするという場面があった。そこで、コウモリは、鳥の一族が有利になると、鳥に向かって、自分は羽根があるから鳥だといい、今度は獣が有利になると、獣に向かっては、自分は毛が生えているから獣だと言って、それぞれにうまく立ち回っていた。しかし、そのうちに、鳥と獣の間で和解が成立すると、それまでうまく立ち振る舞っていたコウモリに対し、どっちに対してもいい顔をすることで、自分の立場を確立させようとしたことは、たびたび願えりを繰り返した卑怯者ということで、皆から相手にされなくなった。
それで、コウモリは、暗く誰もいないところで密かに暮らすようになったというのが、
「卑怯なコウモリ」
という話の逸話であった。
だが、これは昔の人が、コウモリという動物を見て、勝手に創造したお話であり、実際のコウモリはそんなことはないと思える。
なぜなら、
「目が見えないコウモリが、そんな卑怯なことはできないだろうし、もし、そういう態度を取ったとしても、障害者が生き残るために仕方なくやったことであり、コウモリをそんなに卑下してもいいものだろうか?」
と考える人も少なくないだろう。
そう、コウモリは目が見えないのだ。
目が見えないが、暗闇でも、ぶつかることなく飛び回ることができる。自分で電磁波を出して、その跳ね返りで、目が見えなくとも、障害物にぶつかることなく暮らしていけるというのが、その理由である。
逆に、コウモリが誰もいないところで暮らすようになった理由は、目が見えている連中に気を遣って、邪魔にならないように密かに暮らしているのだとすれば、何とも検挙で、卑怯などという言葉とは裏腹な、
「正義感に溢れた動物ではないか」
と言ってお過言ではないのではないか。
そうなると、コウモリという動物の逸話は、誰か特定の者が、コウモリに対して偏見を持っていて、勝手に作り上げた偶像だと言えるのではないだろうか。
そもそも、コウモリがどうして目が見えないのか、そして、超音波を出してその覇者で物体の存在をしり生き延びることができるのか、今の、
「弱肉強食」
という理論であったり、
「生態系のバランス」
というという考え方などから、コウモリという動物が、どうして存在しているのかということの意義は、考えさせられるものがある言えるのではないだろうか。
もし、そこに存在意義があるのだとすれば、これから開発される薬にも、その意義があることになり、その意義は、コウモリという動物の存在と、切っても切り離せない関係にあると言えるのではないだろうか。
人間の中にも、目が見えない人間というのは、何かの力を秘めているのではないかと言われているように、コウモリにおける超音波のようなものが、人間にも潜んでいるという話を小説に書くとするならば、かなり恐ろしい話になるのではないかと思った
「人間自らが、不自由な人間を作りだす」
という、まるで、
「生殺与奪の権利」
に似た考えが、頭をもたげるのであった。
また、コウモリの話の中には、まったく正反対の教訓を持った話が存在する。しかも、その二つは同じ、「イソップ寓話」の中に収められているものだというのも、興味深い話であり、今回の、
「卑怯なコウモリ」
という話の教訓として、
「何度も人を欺く者は、やがて誰からも信用されなくなる」
というもので、
「お前のような卑怯者は二度と出てくるな」
と言われたことで、双方から追いやられる格好になり、伊庭曽我なくなったコウモリは、やがて、暗い洞窟の中に身を潜め、夜だけ飛びようになったということであった。
これが、
「卑怯なコウモリ」
の話であり、
「鳥と獣と蝙蝠」
とも言われている。
そして、それに正対するかのような話に、
「蝙蝠と鼬(イタチ)」
という話がある。
この話は、地面に落ちた蝙蝠がイタチに捕まって命乞いをすると、
「すべてお羽根があるものと戦争しているので、逃がすわけにはいかない」
といわれ、
「自分は鳥ではなくネズミだ」
と言って放免してもらったが、今度はしばらくして、別のイタチに捕まった時、今度は、
「ネズミは皆仇敵だ」
と言われたので、
「自分は、ネズミではなく、コウモリだ」
と言って、またしても逃げたというのだ。
この時の教訓は決して卑怯者というわけではなく、
「状況に合わせて豹変する人は、しばしば絶体絶命の危機をも逃げおおす」
ということだというのが教訓である。要するに、
「いつまでも同じところにとどまっていてはいけない」
という教訓でもあるというのだ。
この話を聞いて思い出すのが、戦国時代の戦国武将である。真田昌幸である。
彼は、戦国大名としては、まだなり立ての弱小であったので、特にまわりには、北条、上杉、徳川、などの群雄割拠の武将が、戦国時代において、領地獲得に牙をむいていた時代、真田家はは周囲を挟まれることになった。
そんな時、知略を用いて、まるで、
「卑怯なコウモリ」
のように、うまく世渡りをしながら、どうしても戦が避けられなくなると、相手を油断させたり、さらにはうまい口実を設けて。自分たちが守るための城を作らせたりして、自分たちの土地を守ることに成功した。
主君を次々に変え、うまく世渡りをし、時には戦争になった場合を見越して、先手先手を打って、相手を欺いたりするようなやり方で、生き残ってきた。
それを秀吉は、
「表裏比興の者」
と言ったという。