三者三様のタイムスリップ
「おばあさんが亡くなった時くらい泣いてもよさそうなのに、悲しむこともなく。ただの無表情、あれは気丈に振る舞っているわけではなく、冷徹な性格なのかも知れないわね」
と言われていた。
そもそも、彼女にそんな気持ちを植え付けた母親も、
「あの子は冷徹な子だ」
と思わせていたのだから、母親もいい加減である。
そんな冷徹だと思われている彼女だったが、
「ふふふ、どんどん私を冷徹だと思えばいい。どうして私が冷徹になったのか、あんたたちにはどうせ分かりっこないのさ。そこで皆に目立たないように振る舞っている母親に、皆騙されて。洗脳されればいいんだ」
と感じていたようだった。
「私は、これからも、誰が死んでも悲しいなんて思わないだろうな。お義母さんが死んだら、赤飯でも炊くかもしれないわ」
というくらいだったようだ。
人から洗脳されるというのは、直接洗脳する意識で、相手に言い聞かせる場合がほとんどなのだろうが、それ以上に、本人には意識がなく。ただ、相手に、
「自分の都合で言っていることだ」
と思わせながら、相手がショックを受けるだけのことを平気で言い放つことで、相手の性格を変えてしまうだけの力があるということを知らないと、相手は洗脳を受けたことで、まわりを恨むような性格にならないとも限らないだろう。
そして、その人はいつしか。
「私には生殺与奪の権利があるのかも知れない」
という妄想に駆られ、そういう妄想に駆られた時、自分が本当に誰かを殺さなければ、我慢ができない。
つまり、
「生殺与奪の権利は、持ってしまえば、一度は絶対に実行しなければ、結果として、自分に向かって行使することになってしまうのではないか」
と思うようになる。
実に恐ろしい発想であり、普通はほとんど誰もそんなことを感じることではないと思っているのに、この権利を取得したと思った瞬間から、自分以外の皆にも持っているものだと感じるようになり、そうなると、抑止力のようんあ、
「二匹のサソリ」
のようになりかねないだろう。
輪廻転生
宗教的な考え方として、人に限らず、
「命のある生物は、死んだとしても、人間を含めた生類に生まれ変わるという思想である。その発想が、「前世」という発想に繋がっていて、今の世界で生きている自分が、不幸であるとすれば、
「前世の因果が、今の世界に報いている」
と言われることがある。
虫が苦手だという人がいて、占いなどをしてもらうと、占い師から、
「前世で、あなたは虫であり、人間によって潰された記憶が残っているから、そのトラウマから、虫を見ると、まるで自分のことのように感じてしまうのではないか?」
と言われたりした。
「じゃあ、その自分を握りつぶした人間に、自分が生まれ変わったということのなるんですか?」
と聞くと、
「ええ、そうです。生類が生まれ変わる時、人間が絡んでくると、必ずそこでは、因果が巡っていることが分かるんです。なぜなら、人間だけは、意識が持てるではないですか? つまり、今の世で人間であるか、前世で人間であるかという因果は、必ず意識きるんです。なぜなら、動物にはそういう意識や記憶という概念がないではないですか。人間だけが感じることができる。そして、それは人間が感じるものなのだから、当たり前といえば当たり前のことなんです。輪廻転生という考え方は、意識がなければ成り立たないものではないかと思うんですよ」
と占い師は言った。
「えっ? 輪廻転生というのは、生類であれば、何にでもありえることではないんですか?」
と、隼人が聞くと、
「ええ、基本的にはそうなんですが、理屈を説明するのに、意識がないと成立しないでしょう? 意識することができるのは、人間でしかない。つまり人間があくまでも中心なんですよ」
と占い師はいう。
「輪廻転生というのは、僕の中では当たり前のことだと思っていて、子供の頃から何の疑いもなく信じてきたものなんですよ。ただ一つ気になっているのは、輪廻転生の中で、どのタイミングを現在と捉えていいのかということなんですよ」
と隼人がいうと、
「なるほど、その発想は分かる気がします。現在があって、過去があり、未来がある。しかし、その現在というのは、未来に向かって進んでいくものですよね? でも、発想というのは少しおかしな気がしませんか? 未来に向かって進んでいると何の意識もなく言っていますが、それは本当なんでしょうか? だって、未来に向かって現在が進んでいくとすれば、今でいう現在というのは、どんどん過去と入れ替わっていって。その時に見えた現在というのは、過去によって塗りつぶされていき、積み重なっていく過去にどんどん重なっていくのではないかと思えるんだ」
と、占い師は言った。
「難しいですよね?」
「その発想はね、鏡に映った左右対称という意識に似ていると思うんですよ。それはね。自分の見ている位置は同じでも、そこに鏡を介するとすれば、自分の見えている姿と、正対している人とでは、左右対称なのは当たり前。またもう一つ感覚的な意識として、エレベーターの中に乗っている感覚に似ているんだ。例えば、下から上の階に進む時、エレベータが発射する時は、足に重力を感じ、止まる時は、まるで宙に浮いているような感覚に陥るでしょう? それはエレベーターから表が見えないからで。自分の中で感じている感覚がかなり大きな錯覚を描いているということを感じさせられるのであろう。
上下の感覚というのは、機械がもたらす感覚は。もしも見えていたとしても、実はかわりのないものではないだろうか。
それがエスカレーターであっても同じで、
「エスカレータの電源が入っておらず、歩いていかなければいけなくなると、乗る時は、身体が後ろに反り返るようになり、降りる時は、前につんのめるようになるという錯覚が生まれるのも、同じことではないだろうか?」
と考えられる。
「時間というものは、普通に流れているんですよね。きっと、誰にでも平等のスピードで流れていると思うんですが、人はそれぞれ、自分が置かれたその世界での時間を、自分が迎えたその立場で考えようとすると、まったく違った感覚になるのではないかと思うんですよ」
と隼人が言うと、
「なるほど、そうだね」
と占い師は、珍しく話をスルーした。
この占い師は、占いを受けている人がうんちくなどを語り始めると、意地でも主導権を相手に与えないようにしようと、話を必死に引き受けようとして、下手をすると、露骨に話の腰を折ろうとするところがあるという話を他の人から聞いたことがあったので、そのあたりは覚悟の上でやってきたつもりだった。
しかし、その時の占い師は、話の腰を折るどころか、隼人が話しやすいようにしているという配慮すら感じられるくらいだった。
「俺の話を真面目に聞こうとしてくれているのか、それとも、言いたいことを最後に回そうとでも企んでいるのか」
と考えていた。
そう思いながら、隼人は続けた。
作品名:三者三様のタイムスリップ 作家名:森本晃次