三者三様のタイムスリップ
「これからどんどん、恋愛もして、勉強もして、さらに、仕事という本業に真剣に取り組むことができる環境を作っておくのが、今の高校生という時間なのではないだろうか?」
という、優等生のような考えを持っていた。
ただ、自分でどんな趣味が合うのかが、なかなか見つからない。
やってみてというよりも、齧ってみて、
「これは違う」
という手探り状態を繰り返す。
だが、そのうち必ず、自分にとっての本当の趣味が出てくることだろう。それが芸術なのか、スポーツなのか、それとも、その間のレクリエーションのようなものなのか。考えただけでワクワクもしてくる。
「ひょっとすると、何かの趣味に没頭していて楽しいと感じている夢を見ていたのかも知れない」
と思った。
だから、新しい趣味ができて。それに没頭していると、
「この感覚、以前にも味わったことがあるような」
という、デジャブに襲われるのではないかと思っていた。
「夢では思い出せないが、本当に最初に感じたことは、必ずどこかで思い出すことになっている」
とつかさは思うのだった。
思い出せない夢というのを勝手に想像していると、そのうちに思い出せそうな気がしていたのだが、やはり、
「夢というのは、いいことは覚えていない」
という思いの方が強く、思い出すことはやはりなかった。
記憶喪失になった人が、思い出す時に、頭痛に襲われるというが、これも生みの苦しみであり、楽しい夢を思い出すのも、同じようなものではないだろうか?
夢を思い出すだけで、いちいち頭痛に見舞われていると、それこそ、身体がいくつあっても足りないと言えるのではないだろうか?
それにしても、夢というのは実に都合のいいものである。思い出したいことは覚えていなくて、思い出したくないようなことを覚えているのだから、何とも皮肉なものである。
皮肉なことでも、
「都合がいい」
と判断するのは面白いもので、夢というものを理由に、言い訳めいたことができるのではないかという意味での都合のよさもあるということだ。
ただし、それには、辻褄が合っていなければならず、自分が最低でも納得していないと解釈できないことである。
自分にとって、怖いこと、楽しいこと、いいことは他の人にとっても同じだとは限らない。そして一つ考えているのは、自分しか見ていないと思っている夢が、
「本当に自分だけのものなのだろうか?」
と感じることであった。
つまり。覚えていない夢の中には、他の人との夢の共有のようなものがあって、夢の世界でも綱駆っているのではないかと感じることであった。
夢の中で、自分と同じ思いを持った人と、周波数のようなもので繋がっていて、それが夢として意識が表に出ることで、他の人と夢を共有している場合もあるのではないかということだ。
ただ、それが本当にどちらも夢である必要があるのか? という問題で、片方は夢であっても、片方は実際のことなのかも知れない。
その時、共有しているという意識と、
「自分は夢なのに、相手は現実だ」
という意識を認めたくないという自らの意識で、夢の内容を打ち消そうとしているのかも知れない。
それならば、何も夢を見せる必要もないだろうにと考えるが、どこかにやはり何かの辻褄を合わせようとする理屈が働いていて、その理屈を解釈させる機能が人間にはないことから、夢を忘れさせるのかも知れない。
こんなメルヘンとも言えるような発想は、さすがに女の子だと言えるだろうが、真剣に真面目な話として考えると、核心をついているように思えてならなかった。
誰にとっても夢というのは、目が覚める直前の、数秒間に見るものだという理屈を共有している。
誰かからこの話を聞いたような気がすると思っているのも、記憶に辻褄を合わせようとするからで、本当は最初から自分で納得して理解していたことなのかも知れないと感じている。
それはきっと、遺伝子が影響しているのだろう。
遺伝子の働きはまだ科学では証明されていない。先祖から脈々と受け継がれてきたもの以外でも、当然、人間が最低限に保持している本能のようなものも、遺伝子によって受けうがれている。
これは人間に限らず、生命のあるものすべてである。
動物は、親から教えられたわけでもないのに、キチンと自分のやるべきことを分かっている。点滴に襲われた時の対処方法であったり、ケガをした時などの再生能力という力は、遺伝子の働きで永遠に受け継がれていくものだろう。
条件反射であっても、無条件反射であっても同じこと。そうやって、自然界は回っているのだ。
よう言われている。
「弱肉強食」
というのも、生態系という意味で、ちゃんとした平衡感覚が保たれているから存在しているのだ。
そういう意味で、
「命あるものは、必ず死ぬ」
という理屈になる。
しかし、それではあまりにもというべきなのか。宗教としての、輪廻転生という発想が生まれてきたに違いない。
さらに、そこに、
「生殺与奪の権利」
という発想が入ってくると少し面倒だ。
「生命のある者の生き死にを誰かに与えたり奪ったりできる権利」
ということなのだろうが、もしそんな権利を持っている者がいるとすれば、神様しかありえないということで、逆にいえば、
「生殺与奪の発想を正当化させるために。神という存在が必要なのだ」
と言えるのかも知れない。
そもそも生殺与奪の権利というと、古来に存在した、国王や統治者によって、臣民や奴隷に対して。刑罰や懲戒として裁判をせずに、死刑に処することであったり、国王や統治者がその権利を掌握していることをいう。
明らかな階級差別があった時代のことであり、支配者においては、奴隷というものを虫けら以下という発想から来ているのだろう。
我々だって、人間に対して、
「殺めてはいけない」
という発想は持っていても、昆虫や一部の動物に対して、殺すことに一切の罪悪感を感じない場合だってあるだろう。
ただ気持ち悪いという印象しか持っていないゴキブリなどに対しては。反射的に潰してしまったりしても、罪悪感を感じたり、
「ゴキブリが可哀そう」
だなどと、考える人がいるだろうか。
つかさの知り合いで、以前子供の頃、
「ゴキブリは疎まれて殺されるのは可哀そうだ」
と言って、母親に話をしたことがあったが、その時母親は虫の居所でも悪かったのか、
「何を言ってるの。ゴキブリが可哀そうだなんて口にしちゃあ、他の人からバカにされるわよ。そんな発想は捨て七位」
と言われて、子供心に大きなショックを受けたという。
まだ小学生の低学年の頃で、誰もがこの発想をする時期ではないかと思うその時、母親から相手にされずに、世間体だけを気にされたということが、すごくショックだったという。
そのせいで、その人は、
「そっか、死ぬってことは可哀そうでも何でもないんだ」
と思うようになり、祖母が亡くなっても、悲しいとは思わなかったという。
それが中学生の頃だったので、まわりからは、
「あの子、おばあさんが亡くなっても、気丈に振る舞っている。なんて大人なんだろうね」
という人もいれば、
作品名:三者三様のタイムスリップ 作家名:森本晃次