三者三様のタイムスリップ
となると、タイムスリップした先がどうなっているかということは関係なく、勝手にタイムスリップするというのであれば、これほど危険極まりないものはないと言えるであろう。
飛び出した先が、溶鉱炉であったり、電車が走るレールの上であり、問い出した瞬間に、列車に轢かれないとも限らないだろう。
それを思うと、タイムマシンというのも、恐ろしいものだ。その危険を分かっていて、タイムマシンを利用するのは、自殺行為に等しい。タイムマシンを開発したのであれば、同時に、
「行き着く先に危険がないかどうかを見極められる装置まで一緒に開発しておかなければいけない」
ということになるだろう。
もし、タイムマシンを開発した人間が、違う時代に飛び出して、そこで死んでしまったらどうなるのだろう?
もしそこが生まれる前だったとすれば、
「生まれる前に、自分は死んでいた」
ということになり、一見、敬意を見れば無理のないことに思えるが、焦点だけで見ると、矛盾している。
「果たして、時間というものは、どこまで矛盾と許すというのだろう?」
ということを考えていくと、タイムスリップであったり、タイムトラベルというものが倫理的に成立できるのであるかというところから、考えないといけないのではないかと思う。
科学的な発明品である前に、科学の証明になるであろう時間というものを、人間が操ってもいいのかどうか、そのあたりから考えてみる必要があるのではないかと思われるのであった。
タイムスリップしたその先で見たものは、国家総動員法によって、どんどん若い人たちが中国大陸の戦地に送られているという姿だった。
社会生活は、戦時中、戦後の生活とまではいかないが、ほとんど自由というものはなかったと言ってもいい。
何しろ、爆発的な人口の増加と、不況、不作により、供給がまったく追いつかない状態では、日本だけで賄っていけるわけではなかった。
前述の満州の問題もさることながら、シナでの問題も山積していて。二年前に突入したシナ事変において、日本がどのように振る舞えばいいのか、それが問題だったのだ。
そんな時代にタイムスリップしたことで、まず主人公が慌てたのは無理もないことだ。
しかし、それ以上に、次から次への信じられないような光景を見せられたことで、いつの間にか自分が、目の前で起こっていることが他人事に思えてきたのだ。
つまり、
「夢を見ているに違いない」
という発想に至っているのであって、
「主人公でなくとも同じ発想に至るのは、子供にでも分かることだ」
と考えたが、映画を見ているつかさは、その時、そこまで考えていなかった。
ナレーションの中で、主人公が他人事のように夢を見ているようだということを話していなければ、まったく気づかなかったと言ってもいいだろう。
「そっか、夢みたいだって、普通なら思うわな。でもどうして私はその時、そう思わなかったんだろう?」
と感じたが、とにかく、そこまで発想が浮かばなかったという事実だけを受け止めるしかないようだった。
タイムスリップということ自体。主人公は受け入れられない。自分で望んだわけでもなく、勝手にこの世界に飛ばされてきた。
飛ばしたやつがいるのだとすれば、そいつを呪ってやりたいが、呪うだけでは、何の解決にもならない。
となると考えたこととして、
「俺はどうして、この世界に飛ばされたんだ?」
という発想であった。
自分で望んだことでないのであれば、誰かに手によって飛ばされたわけで、そこには自分でなければならない理由。そしてこの世界でなければならない理由が存在しているように思えてならなかった。
自分が住んでいた時代とはまったく違う軍国主義、国家社会主義と言える世界。学校で習ったり、親から聞かされたりしたことのあった時代なので、悲鳴を上げるほどの驚きはなかったが、そのせいか、他人事に感じることで、やり過ごせるかも知れないという、一縷の望みもあったのだろう。
そういう意味で、
「これは夢なんだ」
と思い込もうとしていた。
夢というものについて、その頃まで、ほとんど気にしたことのなかったつかさだが、映画を見ながら、
「夢って何なのかしら?」
と思うようになった。
そして、映画を観終わってから、夢につぃて調べたのは、当然の行動だっただろう。
もちろん、調べきれなかった部分は自分の経験とを総合して考えたことで、どこまでが真実なのか分からない。
そもそも、
「夢というものに真実があるのか?」
と考えたその時、急に矛盾が襲い掛かってきて、気持ち悪さがこみあげてきた。
「夢こそ真実を写す鏡のようなものではないだろうか?」
と考えるに至ると、今度はそれほど気持ち悪さを感じなかった。
感覚として、しっくり来ていると言ってもいいかも知れない。
まず考えたのは、
「夢というのは、目が覚める前の数秒で見るものである」
ということであった。
それはどんなに長い夢であっても、同じことであり、この話は、本で見つけた内容だった。このことが基本になっていろいろ思いつくのだが、その一つとして、
「夢は目が覚めるにしたがって、忘れていくものだ」
という発想であった。
夢の記憶というと、怖い夢しか記憶がない。記憶があるというのは曖昧でもいいので、どんな夢だったのかを意識できる夢だった。しかし、楽しかったり、いい夢というのは、
「いい夢を見た」
という思いだけが漠然と残っているだけで、内容はまったく分からない。
描写も時代背景も何が出てきたのかということも一切、記憶としても意識としても残っていないのだ。
つかさにとって、何がいい夢なのかというのも分からない。まだ高校なので、あるいは、もう高校生になっているのに、とその両方で言われるが、何か目指しているもおがあるというわけではない。
もちろん好きなものや興味のあるものはあるが、それを将来において仕事にしようとかいう思いはまったくなかった。
そういう意味では、
「趣味と実益を兼ねた」
という言葉は嫌いだった。
「好きなことを仕事にしてしまうと、その瞬間、好きではなくなってしまう気がする」
という思いと、
「趣味でやっているには気にならないが、仕事で疲れたり、追い詰められたりした時の憩いとして趣味があるのに、その趣味から追い詰められるというのは、それこそ本末転倒というものだ」
という思いが交錯し、趣味と実益を一緒にしてしまうのは、恐ろしいと思うようになっていた。
「じゃあ、他の趣味を持てばいいじゃないか?」
と言われるのだが、一つの趣味も極めてしまうと、他の趣味を持てるほど、今度は時間がない。
実際には、本業があっての趣味なので、趣味にこれ以上時間を取られるわけにもいかないということになるだろう。
そこまで自分の中で極めていないと、癒しになるわけはなく、
「趣味であっても、真剣でなければ、そのうちに飽きてくる」
と思っていた。
さすがに一生できる趣味というのはなかなか難しいだろうが、そんな趣味を探すというのも結構楽しいかも知れない。
まだまだ高校生なのだから、これからだと言ってもいいだろう。
作品名:三者三様のタイムスリップ 作家名:森本晃次