三者三様のタイムスリップ
大本営という戦争においての最高機関に、陸軍大臣でもある首相の自分が参加できないというのは、どうしようもない理不尽さであっただろう。
ほとんどの人が勘違いをしているかも知れないが、総理大臣は、戦争のことについて、口出しできないどころか、会議に参加することすら許されない。
だから、軍と政府は意思の疎通がうまくいっておらず、戦争に突き進んだのも、軍部の独走と言われているが、実際には、それだけではない、大きなものが、しかも絡み合う形で形成されてしまうことで、統制が取れていなかった。
しかも、外交を担う外務大臣は政府の人間なので、軍が何を考えているか分からずに、外交をしなければいけないという難しさがあっただろう。軍部も独走できるし、政府は後付けで承認するしかないという捻じれた体制に、当時の日本はなっていたのである。
当時の日本は、国防の問題や、先進国への野心というものもあったことから、軍国主義に拍車がかかったのも仕方のないことなのかも知れない。
しかし、その精神は今の若い連中とはかなりの開きがあるのではないか?
何と言っても、政府自体が自分の私利私欲のために行った悪行を、保身のために国家権力を利用しようとしてみたり、
「一国の首相が、自分の保身のために、検察官の定年退職の年齢を法律改正してまで、検察官を続けさせようとする姑息なやり方」
を強行しようとしたことは、周知のことである。
しかも、その当の本人である裁判官が、渦中であるそのタイミングで、賭博という行為において職を追われるという茶番を演じたことで、このソーリは、以前と同じように、病気と称して、病院に逃げ込んだのである。
確かに、戦前、戦時中の政治家や軍人たちは、自分たちの主義主張のために、暗殺であったり、いろいろなことを行ってはきたという事実もある。
しかし、それは私利私欲のためではなく、
「祖国を憂いてのこと」
ということで、やり方は違えども、国家、皇国の存亡のために、日夜努力をしてきたのだ。
そんな人たちのことを勉強しようともせず、ただ、
「日本を滅亡に追い込んだ」
という占領軍の教育を真に受けて、国家を守ろうとしてくれた人たちをぞんざいな扱いをするというのは、いかがなものかと考える。
日本という国が、今どこに向かおうというのか分からないが、パンデミックを経験した際における政治家というのは、
「決して国民を守ろうという意識はサラサラない」
ということを露呈したではないか。
何と言っても、伝染病が拡大して、医療崩壊を起こした時、政府が言った言葉を忘れてはいない。
「国民の皆さん、災害時と同じで、自分の命は自分で守ってください」
と言ったのだ。
確かにその通りであるが、訊き方によっては、
「政府が国民を見殺しにするような発言ではないか?」
と言われても仕方のないことである。
確かに、政府や自治体の方針には限界がある。いくら法律を変えてみたとしても、伝染病がなくなることはあい。
もし、昔の、国家総動員法や、治安維持法のように、国家が国民を縛り付けて。一種の国家社会主義的な状態になったとしても、果たしてウイルスが収まってくれるのかということと、関連してくるのか難しいところである。
国家が国民を締め付けたとしても、感染が収まらなければ、国家に対しての不満が爆発し、クーデターが起こり、最悪、無法地帯と化してしまうかも知れない。
その場合に、警察や自衛隊などの、本来であれば、国民のための組織が、その時は何のための組織に変わってしまうのか、考えると恐ろしいと言ってもいいだろう。
そういう意味でも、日本という国は、数十年で正反対の国になってしまった。
その際に起こったこととして、結局はどちらも中途半端な状態に陥ってしまい、収拾がつかなくなってしまうという危険性を孕んでいるということである、
戦前の場合は、それが一度の暴走から一直線に破滅への道を転がり落ちてしまったことから、一度は、
「崩壊してしまった」
と言ってもいいだろうが、今の世界では、そこまで一気に坂道を転げ落ちているわけではないので、
「いかに国家のメンツを取り戻せるか」
というのが問題になってくる。
「首相がどんどん悪くなってくるんだけど、日本という国は一体どうなっていくんだ?」
と、政治に興味のなかった若い連中にでも分かるという、実に分かりやすい状態になってきたわが国日本は、本当にどうなっていくのだろう?
その象徴を、
「自粛警察ではないか?」
と言っている人がいた。
「彼らを軽視してしまうと、いつの間にか彼らがテロリストであったり、パルチザンのようになってしまう可能性だってないわけではない」
ということで、自粛警察をひそかに監視する部署が警察や公安に作られるのではないかという話をウワサとして聴いたことがあった。
そんな世の中にならないよう、願うだけしかないのかと思うのは、実に寂しいことであったのだ。
生殺与奪の権利
少し話が逸れてまったが、いちかは自分の性格である、
「勧善懲悪」
な部分を、長所だと思っている。
だから、自粛警察というのも否定はしないし、軍隊のようなものは嫌いであるが、過去の政治家や思想家の人たちを、今の人が見て批判するのと同じ立ち位置から見るようなことはしたくなかった。
そう、確か話は以前につかさが見た、大東亜戦争前の日本にタイムスリップした人の話を描いた映画の話だったではないか。
この映画をいちかも見ていたのだが、このことについてつかさはいちかと話をしたことはなかったような気がする。
だから、この映画をつかさが見たというのをいちかは知らないだろうし、知っていたとして話題になっていたかどうか、疑問を感じていた。
なぜなら、二人の性格を考えると、話題にすべき点が、それぞれに違っているような気がして仕方がなかったのだ。
つかさは、いちかと違い、この映画をSFとして純粋に見ていた。いちかのように勧善懲悪な性格であれば、きっと時代背景の方に目が行くであろうことは、分かり切っていると思ったからだ。
最初につかさが考えたのが、
「タイムスリップというのは、時間を超えるだけで、出てくる場所は座標軸で変わりのないところなのだろうか?」
というものである。
つまりは、時間を超えるだけで、場所が別の場所になるということはないだろうという発想であった。
だから、タイムマシンなどをテーマにした映画では、時間を超えた先のまったく同じ場所に辿り着いているというのが、当たり前のように描かれている。そのことについて誰も問題視もしないし、言及もしない。それを思うと、この考えは、
「暗黙の了解」
に基づいていると言ってもいいのではないだろうか。
これを逆に考えると、
「タイムスリップの及ぶ範囲は、時間という軸は超えることになるが、その影響力を及ぼす地理的な範囲は。ごく限られた場所でしかない」
ということになるだろう。
作品名:三者三様のタイムスリップ 作家名:森本晃次