三者三様のタイムスリップ
「海が世界の果てまで続いていて、その先には滝のようになっていて、あまり奥にまで言ってしまうと、そのまま滝つぼに飲み込まれて、戻ってこれなくなってしまう」
と言われていた。
これには、二つの意味があった。
「元々、無限に続いているものなので、果てなど存在しないはずだから、どんな世界が広がっているかなど、何とでもいえる」
というもおと、
「滝つぼに呑まれることにしてしまえば、誰も怖くて近づかないだろう。もし果てがあったとしても、それを見に行くものは誰もいないだろう。そうすれば、自分たちが創造した端っこが、本当の世界の果てになるに違いない」
という考えの二つである。
それだけ、誰にも知られてはいけない世界だということなのだろう。
しかし、そんな世界がありえないことだということを、今の人間には分かっている。しかも、言い伝えのように、世界は果てしなかった。しかもそれは、地球が本当に果てしないことであるということを証明もしている。地球という名のごとく、
「地平線は、球のように丸いものなのだ」
ということで、
「どこを通っても、一直線に進んでいけば、また元の場所に戻ってくることになるのだ」
ということを示していたのだ。
それが分かると、天動説が地動説へと変わってくる。
しかし、なかなかその説が受け入れられず、地動説が、ずっと迫害を受けてきた。どうしても、宗教的な発想が、それまで絶対的だということで信じられてきた天動説を間違いだったと認めるわけにはいかなかったのだろう。
「頭が固い」
と言われればそれまでだが、科学が発展する際には、どうしても、最初はなかなか認められないというのも、無理のないことであるのも事実だった。
宇宙の果てについては、まだ誰も証明できるものではない。何といっても、まだ人類は火星くらいまでしか行けておらず、太陽系すら脱出できていないではないか。しかも、今は経済的に、宇宙開発を行えるほど裕福でもない。
何と言っても、宇宙の広大さは学生でも知っている。
「何万光年もの彼方」
というのが星の世界である。
「何万光年というのは、光の速さで、何万年という遠さである」
ということなので、
「今空に輝いている星は、今から何万年も前に光ったものを見ている」
ということになるのだ。
ということは、今本当にその星が存在しているのかも分からない。
万が一、人類が光の速度を超えるロケットを開発し、宇宙に向かって飛び立てばどうなるだろう?
数年宇宙を飛び、地球に戻ってくるということを考えると、その時に地球はどうなっているというのだろう。
もちろん、この発想は、アインシュタインの、「相対性理論」のことを考えたうえでの発想なのであるが、SF小説やアニメなどは、基本的にその発想を無視した話が多いことも事実だった。
昔のアニメで、地球の放射能汚染を食い止めるために、マゼラン星雲にまでいって、一年で戻ってくるというような話があった。
普通に考えれば不可能であったが、光の速度を遥かに超える船の設計図が手に入り、それを元に作ったエンジンを搭載した船でその星に向かうという話であった。
どうしても、子供が見るアニメということで、相対性理論を無視した話になるのはしょうがないことなのだろうが、SFが好きで、相対性理論のことを分かっている人間にとっては、どうにも納得できない話であり、勝手にいろいろ想像してしまうのだった。
相対性理論というのは、
「光の速度を超える乗り物に乗って、地球を離れた場合、地表の時間の流れと違った速度でしか、時は進まない」
というものであった。
高速になればなるほど、実際の時間よりも遅くなるというもので、地球を離れて数年で、また戻ってくるとすれば、地表では、すでに数百年が過ぎているという計算である。
この話を聞いて、
「あれ? どこかで似たような話を聞いたことがなかったか?」
とふと感じる人も多いことだろう。
そう、浦島太郎のお話だ。
カメに乗って海中にある竜宮城に行ったが、数日の宴会ののち、元の世界が恋しくなった太郎が、元の世界に戻ると、そこは、七百年が過ぎた世界であったというのがオチだったではないか。(実際には、その続編があるのだが)
つまりは、浦島太郎がいった竜宮城という世界は、
「時間の流れが極端に遅い世界だった」
ということである。
その証拠に地表に戻った浦島太郎は、まったく年を取っていないではないか。七百年近くも経っているのだから、自分が知っている人は誰もいないのは当たり前だ。
人間はどんなに生きても、百歳とちょっと。特にあの時代は、さらに寿命が短かったではないか。
それを思うと浦島太郎の話は、
「おかしな話であるが、ところどころ辻褄は合っている」
という意味で、科学的には実に興味のある話であることは間違いないだろう。
相対性理論とタイムパラドックス
そして、そんな太郎に対して乙姫様は、
「玉手箱なるお土産」
を持たせたのに気付いた太郎はそれを開けてしまったことで、急に年を取り、おじいさんになってしまったというのであるが、ここにも不思議な感覚に捉われる人も少なくないのではないだろうか?
もし、この玉手箱が、太郎を正常な世界に戻すために使われたものだとするならば、白骨化するくらいであってしかるべきではないか。
知っている人間が誰もいない未来の世界で、しかも、老人になってその場に放置されることになるというのは、あまりにもひどい話ではないか。
いっそのこと、殺してあげた方が、お慈悲というものではないかと思えてくる。このような生殺しのような仕打ちは、果たして何を意味するというのか?
だが、実際には、この話には先があるのだった。
明治政府の意向で、この話は、浦島太郎が玉手箱を開けて、おじいさんになるというところで終わっているかのように思われたが、実際は違った。
考えてみれば、カメを助けた浦島太郎が、どうして、このような報われない最後を迎えなければならないのか。他の昔話とは、明らかに主旨が違っているではないか。
明治政府はそこに、
「見るなのタブー」
を織り交ぜたのだ。
「見るなのタブー」
とは、見てはいけないであったり、開けてはいけないというものを開けてしまうことをいう。
浦島太郎は、乙姫様から玉手箱を貰った時に。
「決して開けてはいけない」
と、釘を刺されていきながら、見てしあったのだ。
きっと途方に暮れて、判断力も低下し、無意識のことだったのかも知れない。ただ、そうなると、他の昔話とは明らかに違うものである。
他の昔話においては、
「見るなのタブー」
として、
「見てはいけないと言われるものを見る時のパターンは、そのほとんどが、好奇心に負けることで、見てしまうことがほとんどである」
というものだった。
そして、心理学的に、
「人間というのは、見てはいけないと釘を刺されたものに対しては、どんどん見たいという欲求に駆られてしまい、最後にはその欲求に負けてしまう」
というのが、一般的な考えであろう。
しかし、宗教的には、
作品名:三者三様のタイムスリップ 作家名:森本晃次