三者三様のタイムスリップ
すべてがゆっくり進んでいるのだとすれば、風もゆっくりでなければおかしい。何よりも、風だけが今の状態で普通ならば、彼らが感じている風というのは、身体を切り裂くくらいの威力のあるものであってしかるべきだ。それなのに、風が吹いても彼らの身体に傷一つ現れるわけではない。
ということは、
「そうか、この風は向こうの世界のものではなく、我々の世界のものなんだ」
ということであった。
つまり、主人公たちがこの世界に入り込んだ時、自分たちがいた世界からの穴が開き、そこに自分たちと一緒に風が吹き込んできたという発想ではないだろうか。
ここから先はアニメ世界の発想ではなく。隼人が感じていることであった。
「自分が主人公になったつもりで、頭を回転させてみようと感じたことであって、視聴者にも同じような発想をさせようという作者からの挑戦なのかも知れない。
このアニメは、子供が見るというよりも、SF調のものであり、大人の方が視聴者が多い。子供にはついていけないという触れ込みもあり、わざと難しい表現をしているところもあったくらいだ。
「ということは、この世界に自分たちのような異世界の人間が入ってきても、彼らの持っている世界は、絶対に入ることのできない結界のようなものが存在していて、それは時と場合において、臨機応変な対応ができるものなのではないだろうか?」
という考えであった。
「では、その結界はどっちの世界のものなのだろうか?」
と考えると、そこがこの世界を解明する一つの糸口に思えた。
風が向こうに侵入しないようにするためだとすれば、向こうの結界だと言える。確かにこちらの速度に合わせれば、向こうでは可視のできないものであり、防ぎようのないものだろう。
こちらの世界でいう、
「かまいたち」
と言われるものと同じで、
「何が起こったのか分からないが、気が付けば、衣類が裂けていた」
などというのがかまいたちである。
それが風の力によるものだということは、最初から分かっていたわけではない。後から研究されて分かったものだった。
そんなかまいたちというものを、どのように解釈するかは、今の科学だから分かったことである。もちろん、昔の人にも分かっていたかも知れないが、照明するだけの機材もなければ、根拠もない。言い伝えでしかなかったことであろう。
「ということになると、かまいたちというのは、他の世界から、結界を超えてやってきたものだろうか?」
という考えにも至ることができる。
かまいたちの発生は、よほどの気象現象が重ならなければ、実現することはない。それは、
「次元を超える」
という発想のように、限りなくゼロに近いが、まったくのゼロではないという発想に近いものではないだろうか。
ただ、
「次元というものがそんなに簡単に超えられるものなのか?」
という考えもある。
しかし、タイムトンネルという発想では、
「ワームホール」
という考え方がある。
これは、
「何かの自然現象なのか、それとも辻褄合わせによって生じるものなのか、偶然できた穴に、誰かがはまり込むと、そこはタイムトンネルであり、時空を超えて、違う時代に飛び出す」
というものだ。
これは、何か見えない力が働いていると考えられるが、それがひょっとすると、文明を持った未来人が過去にやってきて、いたずらをするからなのかもしれないと言っていいのだろうか?
そもそも、パラレルワールドの発想から、
「過去に行くことは危険だ」
と言われていることもあり、素人の我々でも、
「過去に行くことはタブーだ」
と言われているのに、それを悪戯をしてできるようになるということは、未来においては、それらの諸問題をすべて克服し、
「どういうことをすれば、今の時代に影響を及ぼさずに済むか?」
ということまで解明されていなければいけないだろう。
しかも、
「この時から狂ってしまった歴史を元に戻す必要がある」
という考えを持っているとすれば、その時点においては、いたずらではなく真剣そのものだと言えるだろう。
「今、ここで過去を変えなければ、自分たちの未来はない」
というほどに切羽詰まったものだと言えるのだろう。
実際に未来では、
「どのように行動すれば、未来を変えないでいいか?」
という計算ができるほどの、スーパーだか、ウルトラだか知らないが、巨大なコンピューターが瞬時に計算しているのかも知れない。
ただ、行動するのは人間なので、間違いが絶対にないとは言えないだろう。
それだけに、シュミレーションもバッチリとできた状態で送り込んできているのだ。まさにSF映画を見ているがごとくなのではないだろうか。
未来から来た人であっても、今考えられているような、
「人間が時間を操ったり、未来や過去を変えるというようなおこがましいことができないように世の中は作られている」
という考え方であるならば、一体時間を操れるのは誰なのか? ということである。
まさか、
「神様が存在し、神々の赴くままに操られ、人間はそのレールの上に載せられているだけだ」
ということを信じるだけの信憑性があるのだろうか?
無限という発想を頭に描いて、果たして無限の奥がどうなっているのか? ということを、誰が証明しようというのだろう?
無限という言葉を考える時、宇宙を思い浮かべるであろう。
我々のいる地球は、太陽系の中にあり、そのまわりには銀河系という星雲が存在している。
しかも、他にも島宇宙は存在し、マゼラン星雲なども存在するという。
SFなどの中には。自分たちのいる宇宙の裏には、暗黒の宇宙が存在していて、そこがトンネルのようになっていて、その向こうには、光り輝くこちらと同じような宇宙が広がっているという考えである。
その宇宙はひょっとするとこちらと同じ構造になっていて、もしかすると、あちらにも自分と同じ人間が存在しているのかも知れない。
ただ、そうなってくると、
「宇宙というのは果てしないものだ」
という考えを、どのように証明すればいいというのだろう?
果てがないということは、どこまで行っても宇宙は広がっているということである。
だが、考えてみれば、最初に過去の人は、空を見て、その星が皆同じように瞬いているので、遠くにあるものだという感覚はなかったのかも知れない。
そもそも、天動説が主流だったわけなので、
「地球が止まっていて、まわりの星が動いている」
という考え方は、完全に、空を見上げた風景をそのまま解釈したところからであろう。
だとすると、星は皆同じ距離だと思っていたとしても無理もないことだ。
天空は届くものであり、まるでプラネタリウムのようなものだと考えられているのだとすれば、無理もないことだ。
「ひょっとすると、プラネタリウムのあの構造は、天動説のあの発想から出てきたのではないだろうか?」
とも考えられる。
しかし、あのプラネタリウムの機械は何と歪な格好であろう。ある意味、恰好がいいと言ってもいいくらいのもので、天体を揺るがすには、素晴らしい機械だと言っても、差し支えないだろう。
昔は、
「地球の端っこ」
という発想があった。
作品名:三者三様のタイムスリップ 作家名:森本晃次