三者三様のタイムスリップ
そんな歴史の神話の世界にまでさかのぼってしまうと、テーマが壮大すぎて、小説にするのも難しいだろう。
ただ逆にいえば、あまりにも壮大すぎて、昔過ぎるので、何が正解なのか誰も分からないとも言えよう。それだけにいかにでも発想が作れるというものでもある。何が正解なのか誰にも分からないだけに、果てしないテーマとして宇宙と結びつけてみたり、
「歴史全体を人の一生に見立てて、輪廻転生のように、歴史自身に、前世や後世が存在するのではないか?」
という考えも成り立つのではないだろうか。
かつて、アインシュタインが提唱した、
「相対性理論」
というものがあるが、果たして、それ以前にも、相対性理論のような考えが存在したのではないか?
と思われることがある。
アインシュタインは、主に二十世紀の人間であるが、今から約五百年くらい前に書かれた日本の御伽草子に、
「浦島太郎」
という話がある。
浦島太郎の話は、いかにも相対性理論に則ったような話であり。ラストで浦島太郎が丘に上がった時の世界は、自分の知っている世界の七百五十年後だというではないか。
七百五十年というのがどこから出てきた理屈なのか分からないが、数日間で七百五十年を進むという考えは、果たして、光速よりどれくらいの速さで進まなければいけないものなのか、よく分からない。
浦島太郎という話が、本当に相対性理論を表しているのかどうか、作者ではないので分からない。あくまでも、勝手な想像をしたことが、相対性理論に酷似していただけだということなのかも知れない。
そもそも、浦島太郎の伝説というのは、おとぎ草子に書かれているものが有名ではあるが、昔から各地に、
「浦島伝説」
のようなものがあり、浦島太郎の話は、それらを総合的に解釈して書かれたものではないだろうか。
そうなると、この発想はさらに昔、五百年などと言わず、千年、二千年という昔のことなのかも知れない。
ひょっとすると、数千年前に一度世界は滅んで、今は世界からすれば、
「後世」
なのかも知れない。
歴史における、
「前世」
では、今よりももっと発達した文明がそこにはあり、一瞬にして世界を破滅させる兵器を持っていたとして、それを使ってしまったのではないかという発想は、奇抜ではあるが、前世、後世、あるいは輪廻転生という考えに担えば、決して無理な発想ではないのではないか。
浦島太郎の話は。明治時代に、明治政府が教科書やおとぎ話の本を編纂した時、
「どこまでの話にしようか?」
ということになったという。
本来であれば、悲惨な話になりそうなところを、無難な結末にするという話もいくつかあるのに、この話だけは、本来であれば、ハッピーエンドの話であるにも関わらず、最後には中途半端なところで終わっているという結末になっていた。
誰もが、
「何かすっきりしないな」
と感じていたことであろう。
その理由として、
「浦島太郎は、カメを助けたといういいことをして、竜宮城に連れて行ってもらったのに、どうして最後は玉手箱を開けて、おじいさんにならなければいけなかったのか?」
ということである。
「昔話というのは、何か恩を売れば、それを誰かが返してくれる。だから、恩を売っておくのは悪いことではない」
というのが基本的な考えである。
つまりは、カメを助けたのに、何故、おじいさんにさせられるのか? ということが読んだ人にとっての違和感なのであった。
これは専門家の意見によれば、
「乙姫様から言われた、『決して開けてはいけない』と言われたことを守らなかったことに対してのお仕置きとして、おじいさんにさせられた」
ということである。
実際の話は、おじいさんになった太郎に対し、太郎を好きになった乙姫様が、カメになって地上にやってきて、おじいさんになった太郎は鶴になって、二人は、長寿として幸せに暮らしたということだったという。
「なぜ、それではいけなかったのか?」
確かに日本の昔話に限らず、神話や寓話などにも、
「開けてはいけない」
あるいは、
「見てはいけない」
というものを見てしまったことで、大いなるバツが与えられるということは古今東西にあることであった。
聖書なのでは、
「振り返ってはいけない」
と言われて振り返ったために、石になってしまったという、
「ソドムの村」
という話もある。
さらには、
「食べてはいけない」
と言われて食べてしまったイブの話としての、
「禁断の果実」
の話もあるではないか。
日本の昔話でも、浦島太郎以外にも、
「鶴の恩返し」
であったり、
「雪女」
などの話に代表されるものである。
これらのものを総称して、
「見るなのタブー」
と言われている。
その例として、ギリシャ神話、聖書。さらに、ローマ神話、日本の神話、昔話に至るまで、
「見るなのタブー」
は存在すると言われている。
ただ、そのあたりも、少なからず、政治体制が影響しているのではないかと思われる。
一緒にプロパガンダであったり。教訓であったりであるが、果たしてどこまで歴史と比較して考えられるものなのだろうか。難しいところである。
映画や小説を見る時。その基礎として、歴史を勉強しておくというのは、基本なのではないかと思うのだった。
「パラレルワールド」の発想
隼人はこの間見た映画の内容を、ハッキリと覚えているわけではなかった。つかさの方は結構覚えていて、何が問題だったのかということを考えようとしていた。
あの映画の何が問題だったというのか?
たぶん、タイムパラドックスの問題があったからではないかと思うのだが、そもそもタイムパラドックスというのは何であるかということから考える必要があった。
タイムパラドックスの、パラドックスというのは、「逆説」 という意味らしい。つまり、
「表から見ても裏から見ても、その矛盾を解決できないことをパラドックスというのではないだろうか?」
と、隼人は考えていた。
一種の三段論法のようなものが成立するのかしないのか? しないとすれば、そこに逆説を考えてみて。それでも理屈に合わなければ、タイムパラドックスとして認定していいのではないだろう? それはまるで。
「メビウスの輪」
を見ているようで、すべてが、このパラドックスから始まっていると言ってもいいのではないかと思うのだ。
一番よく例としてのパラドックスは、
「親殺しのパラドックス」
と呼ばれるものであった。
要するに、
「自分がタイムマシンに乗って過去に行くとする。自分が生まれる前の親がそこにいて、親を殺してしまったとする」
というのがタイムパラドックスの考え方である。
「自分が生まれる前の親を殺したのだから、自分が生まれるはずがない。自分が生まれなければ、タイムマシンで過去に行くこともない。だから、親が殺されることはないのだ」
という、三段論法的な考えであるが、そうなると、矛盾が生まれてくるのだ。
辻褄というのは。三段論法のそれぞれが、三すくみのような形になってはいけない。それぞれにけん制し合って、何もできなければ、時間が先に進むことはないのだ。
作品名:三者三様のタイムスリップ 作家名:森本晃次