三者三様のタイムスリップ
もっと踏み込んで見てみようと思えばできなくもないが、そんなことをして自分に何の得があるのかということを考えると、自分はいちかに対して、何もできないのだと感じたのだ。
明らかにいちかに対して踏み込めば、嫌われるのは分かっている。隼人は、なぜかいちかに嫌われることを気にしていた。確かに付き合っている女性に嫌われるのは、嫌であろうし、男としてのプライドが許さないのかも知れない。
ただ、それ以上に、何か別の人の目を気にしているというのも事実だった。そのことに気づいたのは、いちかの性格が、
「二重人格的な性格を、裏表で隠そうとしている」
と感じた時であったのだが、
「一体他の誰を意識しているのか?」
ということを分かるまでには少し時間がかかったのだ。
さらに、
「いちかが多重人格だ」
と感じたのは、つかさだった。
つかさは、このことに関しては、異常なほどに自信があった。いちか本人が意識すらまったくしていない性格を、表から見ることで分かる。その理由をつかさは、
「同じ女性だから分かるんじゃないだろうか?
と感じていたが、果たして本当にそうなのか、自分でもよく分かっていないようだったのだ。
いちかには三段階の見え方があった。
見え方が三つある時点で、すでにいちかの表に向けた性格の多重性は明らかであるのだが、その関連について分かっている人は、その時、誰もいなかった。そのことに誰かが気付くのはもっと後のことであるのだが、何とそのことに最初に気づいたのは、いちか本人だったのだ。
そのことをいちかが気付いてから、つかさと隼人の二人に、なにかいちかに対して共通ま視点が見えたようで、その時二人は急接近したかのようだった。
もし、つかさと隼人がお互いの気持ちに最初に気づいたのがいつなのかということになれば、それは、きっとつかさが、
「輪廻転生と、再生能力」
についての意識を、感じた時ではないだろうか?
歴史学
前述のタイムスリップの映画は、いちかとつかさだけではなく、隼人も見ていた。
こういうSF映画は男の子の方が好きなもので、隼人は中学時代に友達とレンタルで借りた映画をよく一緒に友達の家で見ることが多く、その時も一緒に見ていた。
「タイムスリップってすごいよな」
と友達がそういった。
「それはどういう意味mでだい?」
と、言葉が漠然としていたので、思わず、そう聞き返した。
「だって、タイムスリップものの映画っていうのは、まあ、映画に限らず小説に関してもそうなんだろうけど、いろいろな伏線が引かれていて、その引き方が絶妙だと、秀逸した作品になるだろう? だけど、伏線回収がうまくいかないと、どこにでもあるような、陳腐な作品に成り下がってしまう。せっかくの大スペクタクルとも言えるような大作であったとしても、伏線一つで台無しなんだ。しかも、その伏線というのは、ある一点を覆すことができれば、すぐに見えるものなんだろうけど、その線が難しいんだ。まるで結界があるかのように見えるのは、私の思い込みなのだろうか?」
とその友達は言っていた。
「なかなか面白いじゃないか。お前のそういう発想が俺は好きなんだよ」
と、賞賛の言葉を浴びせ、彼は、
「いやあ」
と言って照れていたが、彼は、きっとお世辞だと思ったことだろう。
「まんざらでもない」
と思ったことだろうが、それ以上に、他の人には受け入れられない考えだという思いが強いからではないだろうか。
えてして、こういう考えをする人は、頑固なところがあり、自分の考え方を分かってくれる人はそうはいないという頑なな思いを持っている人も多かったのだ。
だが、隼人はそんな友達の言葉に、普段から考えていて、なかなか答えの出ない話題に、彼が切りこんでくれることで、何かのヒントが現れそうになるのを、心底喜んでいたのだった。
隼人は、賛美のつもりというよりも、
「自分の気持ちを素直に表しただけだ」
と思っていたことだろう。
それに対して友達がどう感じるかは別問題であり、彼が与えてくれたヒントを甘んじて受け入れようというのが、隼人の考え方だったのだ。
隼人にとって、
「伏線」
という言葉は、まるで、目からうろこが落ちたかのように感じられるものであった。
映画であったり、小説で、SFと言えば、どこかに伏線が隠れていて、ラストシーンでいかにその伏線を読者に思い出させるかということが大事であった。
シーンとしては、さほど印象的なものではなく、ラストに近づいてくる頃には、ほとんど忘れてくれている方が効果は高いと思ってもいいだろう。
「ああ、そんなセリフがあったの、すっかり忘れてしまっていたではないか。まさかこれが伏線だったなんて、やられたと言っておいいくらいだ」
とまで思わせてしまえば、作者の勝ちだというものだろう。
小説というのは、しょせんは、
「読者と作者の勝ち負けが、作品の評価を決めると言ってもいい」
と言われるほどだが、小説に比べて、映像作品は不利ではないかと思っている。
小説であれば、イメージを頭に浮かべることで、その伏線が意識から消える可能性は高いだろう。特に伏線が最初の方にあったりすれば、ほとんど覚えていない場合が多い。しかもプロローグでは、読者は、この作品がどういう作品であるかが分かっていない。
それを見越して、あらすじを書いているのだとすれば、この作者の、作品に込める思いがいかなるものなのかが分かってくるというものだ。あらすじの中に、プロローグをミスリードするかのような書き方をしているとすれば、確信犯ではないだろうか。小説に関していえば、確信犯は、決して悪いことではないだろう。
前に見た映画にも、伏線が敷いてあった。ただ、これもミステリーにおける、
「殺害トリック」
と同じで、よく言われていることとして、
「ほとんどのトリックはほぼ出尽くしているので、後はストーリー性や人間関係に織り込ませて、バリエーションを膨らませることだ」
という話があるが、SFに関しても同じである。
特にタイムスリップ系の話はパターンがいくつもあり、バリエーションを膨らませるには恰好なのかも知れない。
そもそも、SF小説というのは、ある意味、広義の意味でのミステリーの分割したものだと言ってもいいだろう。
元々のミステリーというものは、探偵小説と言われていて、今のミステリーよりもさらに幅が広いものだったのではないかと思われる。
そこから、SFやホラー、オカルトの内容が独立していき、それぞれのジャンルになっていったのだろう。
「ミステリー」
などと言われているのも、謎という意味では、SF、ホラー、オカルトなどと、小説の材料になりそうな話はすべて、ミステリーの範疇ではないかと思われる。
タイムスリップなどという話もそうである。タイムパラドックスものであったり、パラレルワールドものなど、時間をテーマにしたものは結構たくさんある。
確かに、ほとんどのトリックというべき題材は、ある程度出尽くされているのだろうが、その時々の場面であったり、時代背景を織り交ぜることで、いかようにも話を盛ることができるというものだ。
作品名:三者三様のタイムスリップ 作家名:森本晃次