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逆さに映る

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 逆にノーマルに見えている人には、その対極となるものがないので、ノーマルでしかないのだろう。もし、ノーマルの後ろに、SMの性格が潜んでいるとすれば、一度どちらかの性格が表に出てしまうと、もうノーマルには戻れないと思う。それだけSMというおのは強いのので、表に出てくると、ノーマルを裏に封印してしまい、下手をすると、その性格を抹殺しかねないと言えるのではないだろうか。
 だが、SとMの関係性は正反対でありながら、力は均衡している。だから、どちらかがどちらかを小説させやり、凌駕するということはできないのだろう。
「SにみえるM」
 と、
「MにみえるS」
 とではいかに違うのか、考えてみた。
 どちらが多いのかというのは、分からないが、そもそも、
「SとMのどちらが多いのか?」
 ということすら分かっていないので、それを解明することは難しいに違いない。
 ただ、彰浩には、
「SにみえるM」
 というのは、何となく分かる気がするが、
「Mに見せるS」
 という感覚は分かりにくいと思っていた。
 実際に、Mというのは、従順でご主人様には、絶対服従なのではないかと思われているが、実際にはどうなのだろう?
 最近のMというのは、わがままだという人もいる。
 それは、ご主人様の立場だから言えることだと思うのだが、従順であるわりに、注文が多いというのだ。
「ここは嫌だから、ここを触って」
 などという言い分である。
 従順であれば、ご主人様がすることは、どんなに我慢できないことであっても、一応は我慢してみようとするものではないだろうか。それを、他の部分では従順なので、自分に譲れないところは、絶対だという考えである。
 主従関係としては、犬と人間のようなペットと飼い主の関係と言ってもいいのではないだろうか。
 イヌはご主人様に対して従順だが、結構わがままをいう。そういう意味ではSMのような関係ではないと言える。
「SMの関係は、人間同士においてのみ形成できる」
 と言ってもいいだろう。
 あくまでもSMの関係というのは、お互いを何でもかんでも、主従関係だけで縛るというわけではない。
 これは封建的な考えと似ているのではないかと、彰浩は感じていた。
 封建的というのは、基本的に武士が台頭していた、鎌倉時代から、江戸末期までをいうのだ。
 どういうものなのかというと、基本的に、主従関係があり、主は従に対して、土地を与えたり、給金と与えたり、戦争などにおいての論功行賞で、防備を与えるという責務を持ち、それに対して従者は、主人に年後を収めたり、戦争では兵士として、兵役に就いたりと、主従で互いに双方向での義務を負うということをいうのであろう。
 それにより、主従の間で、決して犯すことのできない関係性というものが存在し、それが差別を呼んだり、自由、平等というものが生まれない領域を保っている。
 ただそれも致し方のないことで、主人がそれだけの権力を維持していないと、統制が取れなくなり、隣国や別の世界から責められた時、一致団結して国を守ることができないのだ。
 一種の独裁政権のようであるが、この体制も、当時としては画期的なものであり、ただの、
「古臭いだけの風習」
 ということで片づけられないものだと言ってもいいだろう。
 時代というのは、決して疎かにしてはいけないものであり、過去に学ぶものは決して少なくはない。それが歴史であり、歴史は決して暗記物ではないと言えることに繋がるのではないだろうか。
 そして、その方形制度において一番大切なことは、
「主従関係は信頼関係と同じだ」
 ということであろう。
 主従関係に信頼関係が備わっていないと、従者が感じる思いは、
「搾取されている」
 あるいは、
「独裁国家に蹂躙されている」
 などという、負の要素しか生まれてこない。
 封建制度において、少しでも負の要素が生まれてくると、その思いはどんどんマイナスにしかなっていかず。崩壊しか道はないのではないだろうか。
 つまりは、封建制度というのは、キッチリとした制度にみえるが、信頼関係というものがなくなれば、あっという間に瓦解してしまうという、、薄氷を踏むような関係であると言ってもいいだろう。
 実際に、全世界的に、封建制度はすたれていった。それはまるで、現代における共産(社会)主義国のようではないだろうか。
 いろいろな社会制度が存在し、消えていったが、そもそも、封建制度や共産主義などというのは、既存の精度に対しての反省と教訓から生まれたものだった。
 そもそも、元からあるものに対して、新たに出てくるものなのだから、少なからず、今の制度に対しての教訓のようなものでなければいけないだろう。
 共産主義は、資本主義における欠点である、貧富の差をなくすというのが最大の目的であったはずだ。それを、国家が経済に大きく介入することで、貧富の差を少しでも少なくしようとするもので、その弊害として、
「自由」
 というものが迫害されることになった。
 それが、国家の最大なる干渉という社会主義の考え方で、政治的にも国家がすべてを掌握することで、独裁の色が深くなってくる。
 そうなると、独裁者が一番に考えることとして、
「自分に逆らうやつを粛清していくしかない」
 というものであった。
 粛清というのは、自分に逆らう連中や、社会主義に対しての反政府性ry区の弾圧や抹殺である。
 これは、共産主義においては、ほとんどなされていることで、
「かつてのソ連、北朝鮮。中国」
 などの社会主義国で行われてきたことだった。
 これは、封建制度においてもありえたことであり、江戸幕府などが、鎖国をしたのも、そのあたりに大きな影響があったのではないか。
 日本国を方形的に収めていくのに、ここに外国の干渉があってしまうと、それは国家が崩壊をもたらす危険性があるというものであろう。
 話は逸れたが、封建制度における双方向への考え方、そして、それぞれが抱く信頼関係がちゃんとしていなければ、氷が壊れて、冷水の中に落ち込んでしまう。
 一種の、
「諸刃の剣」
 と言ってもいいのではないだろうか。
 それを考えると、自由というもの、あるいは、太平であるという平和というものが保たれているというのがいいことなのか、どこに真実あるいは、それぞれの求めるものがあるのか、分からないと言えるだろう。
 SMの世界にも同じことが言えて、その性格を全否定する考えこそ、恐ろしいのではないだろうか。

               交わることのない平行線

 付き合っている彼女は、
「限りなくSに近いMなのではないか」
 と思っている。
 SMの関係も、どちらかに近いように見えても、結局は、
「交わることのない平行線」
 を描いているに違いない。
 描いている平行線というのは、どんでん返しは昼夜のように、
「片方が表に出ている時は、もう片方は隠れているというように、きっと、SMがそれぞれ出ている時ので、瞬時にまるで切り替えスイッチによって見え方が変わっているかのような操作になっているのかも知れない」
 と感じた。
作品名:逆さに映る 作家名:森本晃次