逆さに映る
彼女の場合、素はMなのだろう。これは、他の人が見ている通り、彰浩にもそう感じられた。ここがブレてしまっていれば、考え方が変わってしまうという意味で、説明もできなくなってしまうことであろう。
「二重人格の人というのは、よくコロコロ性格が変わってしまうように見えてしまう」
という話を聞いたことがある。
こちらが、相手の性格を理解した上であれば、その変わり身も分かるというものだが、どうでなければ、解釈のしようがないこともある。
「私は、よく二重人格って言われるから、いきなり自分ではないようなことを言い出すかも知れないけど、許してね」
という人がいる。
それは半分が言い訳なのではないだろうか? と思うのだが、確かに相手の性格が瞬時に変わってしまっている時というのは、一方の性格しか覚えていない。表に出るのは一方だけだということを示しているからだろう。
同じ瞬間に二つの性格が出てくることをどう解釈すればいいのかというのを考えた時、高校時代に、かなり奇抜な思いを浮かべたことがあった。
というのは、
「本当は、すべて一つの性格で貫徹しているのが事実なのだろうが、それは、自分の世界の中だけの時系列ではないか?」
という理屈であった。
つまり、表には入り組んだ性格が表に出ているように見えているが、本人の中では、いや、本人の世界の中では、時系列が実際の世界とは違っているという考えだ。
入り組んでいる世界は、実は繋がっていて、二重人格の人間が本当に感じている世界は、皆が共通で持っている世界と、時系列が違っているのではないかという考えであった。
人間の中になのか、それとも共通の世界の中でのことなのか分からないが、切り替えスイッチがついていて、時系列を自由に操れる装置があると考えれば、この理屈は成り立つ気がする。
しかし、理屈は成り立ったとしても、その説明はどのようにすればいいのか分からない。
一つ言えることとすれば、皆が共通の世界というのは、少しの溝も許されない。二重人格のどちらかが表に出ている間を、他の人が感じた時、もう一つの裏の性格と入れ替わる時、ちょっとした遊びの部分、つまりニュートラルが存在しているとすれば、それを埋めることは難しい。そこで、、辻褄は合わなくなってしまうかも知れないが、溝を埋めるために、それぞれの性格を瞬時に入れ替えることで、埋めているのだとすれば、この理屈は妙に納得がいく気がするのだ。
もちろん、二重人格、多重順格の人にしかあり得ないことであるが、彰浩は、
「人間は、単独正確というのはありえない気がする」
と思っていた。
必ず、その人の性格には、その裏に隠れているものがあり、人によっては、永久に封印してしまって、表にまったく出さない人もいるので、単独正確だと思われがちだが、そうなってしまうと、性格がどちらかに偏ってしまい、世の中が成り立たなくなってしまうと考えるのだ。
全体のバランスを取るという意味でも、その人自身のバランスを取るという意味でも、二重人格は必ず存在し、存在する二重人格が、絶対に、
「交わることのない平行線」
であるならば、バランスを取りながら、世の中を潤滑させるのではないかと思うのだった。
それまで自分のことを、
「二重人格ではないか?」
と思っていたが、それは間違いではないと思うようになっていた。
そういえば、ちょうど高校生の頃に読んだ小説の内容であるが、その印象が深く残っている。まわりでは、あまり本を読む人は少なく、マンガを見るか、アニメを見るか、という連中が多かった。
彰浩はそれが嫌いだった。本当は面倒臭がり屋なので、本を読むのはあまり好きではない。しかし、本というのは、マンガなどのように、絵で表現できるのではないので、想像力が掻き立てられるという意味で、いいものだと思っていた。
もちろん、今ではマンガの良さも分かっているつもりだ。
絵を描くというのは、文章を書くのと違って、個性がある。文章も個性があるが、絵のようにダイレクトにその状態を表しているわけではないので、余計に、作者側の個性が強く出ている。
そう、彰浩は自分で製作する方ではないのに、作者側の気持ちをいつも考えていた。
「いずれ、小説かマンガが書けるようになったらいいのにな」
という思いである。
どちらいいかと聞かれれば、小説だった。自分の想像力を掻き立てることができるのは、マンガでないと自分で思っていたのだ。
そういう意味で、自分で読むのはマンガではなく、小説だった。実際に想像力を掻き立てられるし、描写も自分勝手にできるからだ。だからこそ、自分の知らない世界を見ているという意味で、昭和初期の頃の小説が好きだったりするのだ。
しかし、想像力を掻き立てるジャンルといえば、
「異世界ファンタジー」
なるものが多いのではないかと思う。
しかし、異世界ファンタジーと呼ばれるものは、マンガやあにめ、ゲームと密接に繋がっている気がする。
彰浩は、アニメもゲームもやらない。だから想像するのも、できないのだ。
しかも、異世界ファンタジーと呼ばれるジャンルは、特に最近の素人が書く作品の中で、群を抜いていると言われる。
一部のネット書籍で、素人の小説を扱っている、
「SNSの無料投稿サイト」
と呼ばれるものがあるが、そのサイトでは、そのほとんどが異世界ファンタジーだと言われている。
異世界ファンタジーと呼ばれる小説が書きやすいのか、それとも、ゲームのストーリーを自分で考えているという感覚で、普通にゲーム感覚になれるからなのか、彰浩はよく分からなかった。
しかし、最近では有名な文学賞の作品では、
「ケイタイ小説」
や、
「ライトノベル」
と言われるような、無駄に空白が多く、ページ数のわりに、文字を少なくしているという、絵本のような小説が多く、それを、
「ただ、読みやすい」
というだけの感覚になってしまっていることが、おかしな気がしているのだった。
彰浩のように、昭和初期くらいの小説を読んでいると、そのほとんどに開業がなく、一見、
「読みにくい」
と思えるような小説も多いのが気になっているところであった。
今まで読んできた昭和の小説は。段落がほとんどないので、読んでいると、結構きつかったりする。
しかし、作家によっては、流れるように読める作者もいる。
その理由としては、
「想像力を掻き立てさせることが上手な書き方をする小説家は、まるで、二次元を三次元であるかのように表現させることができるからだ:
というのが、その大きな理由ではないだろうか。
彰浩も、将来大学に入ってから、自分で小説を書いてみたりしたが、どうにもうまくいかない。その理由の最初の頃は、
「文章を書くというのは、何とも難しいことだ」
という思い込みがあったことで、数行書いて、先に進まないという状態になっていた。
思い込みが、自分の行方に対して、迷いを生じさせるというもので、前述の、
「吊り橋効果」
と呼ばれるようなものではないだろうか。
しかし、それができるようになると、今度は別の悩みが出てきた。