逆さに映る
子守をしているおかげで、彼女がいないことへの、自分に対しての言い訳になったのではないかと思うと、言い訳ではあったが、妹のいちかに感謝だと覆っていた。
そういう、気持ちに余裕が持てるようになったことで、気持ちの余裕が自分に彼女を与えてくれたのだろう。
彼女ができてから少しして、
「気持ちの余裕というのは、彼女ができてから振り返ると、最初からあったように感じたもので、いつ彼女ができるのかということも、予感としてあったような気がする」
と感じたほどだった。
できた彼女というのは、咲江さんのイメージとは正反対だった。
似ているところというと、控えめなところくらいであるが、見た目は、咲江さんに感じた、
「大人の女」
というイメージをまったく彷彿とさせないもので、あどけなさは明らかに子供がそのまま成長しただけのものだった。
彰浩も純情だったので、
「お互いに純情なところが、気が合うところだったのだろう」
というものであった。
だが、彼女に対してのイメージは、虚空に過ぎなかった。見た目と本質は想像以上に差があり、そこには溝があるくらいの気持ちだったのだ。
大人というのが、どのようなものなのか、彼女を見ていると分かると思っていたが、そうでもなかった。あどけなさが、子供を思わせるわけではなく、彼女にはあどけなさの中に、人には譲れない頑固なところがった。それまのに、まわりの連中からは、
「あんなに純情で、大人の世界を知らないような、三行半のような女性は、そうはいないぞ。羨ましい限りだ」
と言って、羨ましがられるが、本当はそうではないと言いたいのに、意地なのか、言えないところが、悔しかった。
ただ、彼女は、強引なところがあった。
今まで接してきた女性に、自が強い女性もいたが、強引な人はあまりいなかった。
相手を立てるという意識が欠如していると言えばいいのか、それとも。性質がサド気性だと言えばいいのか、少し考え込んでしまっていた。
いわゆる、
「サディスティック」
と言われる性格であるが、彼女は最初に見た時、Mに見えた。
まわりの男性からも、今でもMに見えているはずではないだろうか? 彼女のSっぽいところが見えている「にも関わらず、この自分でさえ、彼女がMだということに変わりはないと思っている。
異常性癖と言っていいのかどうか分からないが、SMの両極とも言える性格は、曖昧ではないかと、高校生になってから、彰浩は感じた。
彼女と付き合い始めてからと言ってもいいのだろうが、Sであっても、Mに見えたり、Mであっても、Sに見えたりするというのが多いような気がした。
要するに、見た目と、接している人とでは隔たりがあるということで、隔たりだけではなく、接している人間には、
「Sなのか、Mなのか、どちらなのか分からなくなってきた」
と感じられることが多いということである。
それだけ性質が怪しいということで、
「性質と性格の不一致というのがあるのではないか?」
と思うようになっていた。
性質というのは、接している人が感じる見た目であって、これは、他人事として接していない人が見ているその目と同じではないかと思うのだった。
逆に性格というのは、ただ見ている人には分かるものではない。一緒にいて、付き合ってみないと分からない、肌で感じるものではないだろうか? 他人が、
「その人の性格だ」
と思っていることは、実は性質であって、確実な性格ではない。
だから、あまり接していない人の見る目が悪いというわけではなく、
「性格を見ているつもりで、性質を見ている」
ということであり、勘違いの一種なのではないかと思っている。
そういう意味で、SMのどちらかの性質を持っている人は、性格、つまり本質と言ってもいいかも知れないが、そんな性格を捉えるのは難しいと思っている。
それはどういうことなのかというと、
「SとMというのは、両極というべき、正反対のものではない」
と言ってもいいのではないだろうか。
正反対のものというと、
「どんでん返し」
に使われるものの礼として、歌舞伎などの舞台装置で、上から垂れ下がっている紐を引っ張ると、痴情が反転するようなカラクリを用いたものを思い出させる。
つまりは、一方が表に出ている時は、必ず、もう一方は後ろに隠れているという考え方である。
これは、昼と夜の関係にも似ている。昼間太陽が出ているから蛭であり、日が沈むとそこからはとばりが降りてきて、夜になってしまうのだ。つまりは、夜と昼というのは、じ決して共存することはない。
それを考えてのことなのか、夜を支配する神、夜を支配する神がそれぞれいて、共存しえない世界の代表のように考えられてたりする。それを思うと、これも、どんでん返しと同じではないかと思う。
もう一つ、これは性格的な発想と言えるのではないかと思えるもので、これはかつて書かれた小説であるが、
「ジキル博士とハイド氏」
という、二重人格をテーマにした小説がある。
これは、元々の性格だけではなく、誰もが持っていると考えられている、
「裏の性格」
を、表の性格と同じくらいの大きさにするという実験的な要素を持った話と言えるイメージのものであった。
本当のテーマは違っているのだろうが、話を聞いている限りでは、そのテーマこそ、
「裏のテーマではないか?」
と思い、SMの関係に結びつけたくなるのも無理のないことに感じられた。
どんでん返しにしても、昼夜の関係にしても、ジキルとハイドにしても、片方が表に出ている時と、裏にいるときとでは、同じ世界にそのどちらかしか存在することができないと考えると、そこにもう一つの仮説が生まれてきたのだ。
その仮説というのは、
「その二つは、それぞれが直線を表している」
というものであった。
つまりは、
「決して交わることがないという発想というのは、平行線を描いているからだ」
と感じた。
つまりは、直線でなければ、永遠に交わらないということはないのだ。規模が大きくなってしまうが、一見、遠くに離れていくように見えたとしても、地球を一周すれば、もう一度同じところに戻ってくるので、永遠である限り、絶対にお互いが交わることがないと言えるのは、一直線を描いている平行線でしかありえないのだ。
それを考えると、それぞれが、ブレることがなく、堂々としている必要がある。
カラクリであったり、自然減諸王であったり、小説の中とはいえ、人間の本質という言いで考えると、この考えに対しての信憑性は、かなりのものではないかと思うのだった。
SMの関係というのも同じようなことが言えるのではないだろうか?
「Sに見えるM。Mに見えるS」
という人は結構な確率でいるような気がする。