逆さに映る
だから、自分がお姉さんに近づこうとすると、どうしても父親の姿が見えてしまう。そうすると、父親は彰浩の方を見てはいるが、気持ちは父親の方を向いているということが分かり、母親に近づくことがタブーだと思うようになっていた。
その思いが母親に対しての、わだかまりとなった、
父親に対しては、憎しみ以外の何者でもない。確かに憎しみではあるが、自分には太刀打ちできないということが分かっている憎しみであった。
どうすることのできない思い、悔しいからと言って、父親を殺してやろうと思ったとしても、その先に見えるのは、お姉さんの悲しそうな顔だった。
彰浩少年はそんな顔をするお姉さんを求めているわけではない。だから、憎いからと言って父親を抹殺することは、本末転倒なのだ。そのことも分かっているつもりだったので、なるべく、お姉さんに近づかないようにしようと思っていると、お姉さんを寄せ付けない雰囲気を醸し出すことになってしまった。
お姉さんは、そのことで悩んでいるようだった。
彰浩が何を考えているのか分からずに、悩んでいるのか、それとも、彰浩が考えていることを分かったうえで、どうすることもできないというやり切れない思いを抱いて悩んでいるのか、どちらなのか分からなかった。
そのどちらも感情としては、かなりきついものだとは思うが、その理由には天と地ほどのさがあるにも関わらず、苦しさの度合いは変わらないであろう。
つまり、
「まったく気持ちが分からないから、分かれば苦しみから解放されるのではないか?」
という思いはまったく見当違いだということになる。
「分かったら分かったで、その気持ちが、苦しみから解放してくれるわけではなく、却って、何をどうしていいのか分からないというジレンマに陥ってしまう。まるで吊り橋効果のようではないか?」
と感じたのだと、大人になってから、彰浩は考えるようになった。
吊り橋効果というのは、難しい言葉でいえば、「生理・認知説の吊り橋実験」によって実証された感情の生起に関する学説である。
つまり簡単にいえば、吊り橋のような緊張感を必要とする場所で、判断を必要とする質問をすると、判断を間違えてしまうような状況に陥るということである。
一般の恋愛感情としては、
「出来事→その出来事への解釈→感情」
という経路をたどるものだと考えられていたが、感情が認知より先に生じるのなら、間違った認知に誘導できる可能性があると考えてこの実験を行ったのだ。
「出来事→感情→その感情への解釈」
という状況も一般的な恋愛感情を否定するわけではなく、こちらの感情もありえるとして考えた実験だったのだ。
つまり、受験であったり、恋愛において、自分が何かに板挟みにあうようなジレンマを感じている時、吊り橋の上にいて、その先を見るのと、今まで通ってきた道を見るのとで、実際に距離とを誤認してしまうことこそ、この吊り橋理論を、人間が無意識に意識している証拠なのではないかと思うのだった。
まだ小学生の彰浩に吊り橋理論のような難しい話は分かるわけもなかったが、母親のことを認める気になってきたのは、自分なりに、吊り橋の上でどっちに行けばいいのかということを理解したからではないだろうか。
実際にどっちに行ったのか、後になってしまうと覚えていない。まるで夢を見ているかのように感じられることであったが、それが吊り橋理論の根拠で、そもそも、恋愛論の証明と、つり橋で行おうと思ったという根拠は、この時の彰浩が感じていたことと同じことなのかも知れない。
そんな吊り橋効果があったからだろうか、それを感じてすぐくらいから、お姉さんに対してのわだかまりはなくなっていった。母親として受け入れることができるようになったのは、母親というものを、本当は自分が欲しいと思っていた証拠だということに気づいたからなのかも知れない。
子供の自分がどんなに逆立ちしても、好きになってもらえるわけはないと思った時、
「これって、自分が好きになったから好かれたいと思っていることを恥ずかしいことだと考えていることへの挑戦のような気がする」
という思いを感じたのだ。
確かに、好きだから好かれたいという感覚は当たり前のことなのだが、実際には違っていることをその時に知ったのかも知れない。
お姉さんが、彰浩に優しくしてくれるのは、彰浩のことを男として好きになったからではなく、あくまでも好きになった人の子供だから優しくしているということである。子供だから分からなかったのだが、子供でも、ずっと一緒にいれば、それくらいのことは分かるようになるというもので、頭で分かっていなくても、身体が感じるということを思うと、お姉さんを好きになったと思っている自分が信じられなくなるのを感じたのだ。
「お姉さんのどこが好きなのか?」
と自問自答して、その答えを明確にできないのを、
「俺、まだ子供だから」
といって言い訳をしているのを感じた。
言い訳をするということは、本当に好きなのかということを自分でも理解しているからであって、それを認めたくないと思うことで、自分の中で自問自答がループしているように感じるのだった。
お姉さんを諦めたというよりも、お姉さんをお母さんと思うことで、自分がお姉さんに抱いていた感覚が何であったのか、それを知る必要はないと言われているようで、気が楽になってきた。
今まで、
「子供だから」
と言って言い訳をしてきたが、母親として認めることで、変な言い方だが、相手に貸しを作ったかのように思うことで、自分への後ろめたさのようなものが消えてきたことはよかったのであろう。
父親はそんな彰浩のことをまったく分かっていなかっただろう。
親子というのは、どこまで行っても親子であり、友達にも兄弟にもなれないのだ。
後からこの関係に入ってきたお姉さんは逆に絶対に親子にはなれない。母親と言っても、血の繋がりはないのだ。
彰浩自身、親子や肉親が血の繋がりがあるということで、特別な関係だとは思っていない。
確かに親子は特別だと思ってはいるが、その理由を血の繋がりに求めてはいけないと思うのだった。
だから、父親は息子として見ているのであって、息子が自分の好きになった女性をどのように見ていたとしても、ライバル意識が入り込むわけはない。なぜなら、父親は、
「このお姉さんを好きになったから好かれたいと思っているわけではなく、好かれたから好きになったという関係だ」
ということに、気付いたからだった。
それまで気付かなったことにどうして気付くことができたのかというと、その時に彰浩が、思春期に突入したからだろう。それまでは、異性に対して、特別な思いを抱いていたとしても、それを恋心だとは思っていなかっただろう。
思春期になって、女性に対する感情を、
「恋愛感情だ」
とハッキリと自分でいえるようになったのが、思春期への入り口だったのだろうと感じるのだった。