逆さに映る
として、遺伝子に乗って脈々と受け継がれてきたのではないだろうか?
遺伝子というのは、元々持っていた人の意識や記憶がどこまで受け継がれるのかは分からないが、少なくとも、その人が感じている本能というものは、人間として共通で受け継がれるものもあれば、
「先祖代々、血の繋がりによってのみ、受け継がれるものもある」
と言えるであろう。
その受け継がれるものは、同じ血が混じって、その濃度が濃くなってしまうと、変な化学反応でも起こすと考えられたのか、よく言われているのが、
「身体障害者を生み出してしまう」
ということであった
生涯において、生まれながらにして背負わなければいけないことを背負わされるというのは、実に悲惨なことだと言えるのではないだろうか。
「だけど、どうして血が交じり合うことがまずいというのだろう?」
という素朴な疑問である。
他の人との交わりであれば、血が薄くなってしまうという方が、よほど、問題は大きいのではないかと思うのだ。
だが、古来から人間は血の繋がりで自分たちの世界を形成してきたはずだ。今の時代のように個人の問題ではなく、
「先祖代々から続いてきた家系を、自分の代で途絶えさせてはいけない」
ということで、誰もが結婚を当たり前のこととして、さらには、子供を産むことを仕事だとして考えてきた。
そこに、血が交じり合うという発想はあってはならない。それが、近親相姦の発想なのだ。
もちろん、法律でも、
「三親等未満の近親者とは、婚姻をしてはいけない」
ということになっている。
昔の小説でも、近親相姦で生まれた子供が、復讐から犯罪を犯すという探偵小説も結構あったではないか。
それこそ定番ネタであったであろう。
禁断と言われていることを、小説のネタとして書くのだから、その表現はデリケートなものでなければ、成立しないと言えるのではないだろうか。
しかし、それを思えば思うほど。彰浩は次第にいちかのことが気になって仕方がなくなってきた。
ひょっとすると、初恋以来の本当の恋なのかも知れない。
今まで普通に恋愛をしようと思っても、うまくいかなかったのは、
「このタイミングで、いちかに出会うためだったのではないか?」
と思ったからだ。
「この人と結婚することになるだろう」
と、運命的な出会いをするというが、いちかとは、彼女が生まれた頃から知っている。
その思いは、他の人にはまずないものだろう。
幼馴染だと言っても、三つくらいしか離れていなければ、妹が生まれて時から知っているということにもならないだろう。
少なくとも、小学生に入ってからくらいにしか、生まれた時の意識が残ってはいないのだろうと思う。彰浩には、いちかが生まれた時の記憶が、まるで昨日のことのように思い出される。
最初に見た時、
「何てブサイクなんだろう?」
と感じた。
それは、赤ん坊なのだから当然のことであって、ブサイクだという最低の意識を最初に持ったことで、後はいい方にしか浮かんでこないことは分かり切っていることだった。
大団円
自分が好きになった妹への思いは日に日に強くなっていった。今までの思春期のSMに対しての感情や、自分にとって、今まで気にもならなかったと思っている人の顔が急に浮かんでくるのを思うと、
「俺は思ったよりも、女性を意識していたのかも知れないな」
と感じていた。
彼女ができないのは、自分が表に発散させる男としての感情、一種のオーラのようなものが醸し出されていなかったからではないだろうか。
それを思うと、
「恋愛というのは、やはり片方向だけでは成立せず、お互いに相手を意識するところから始まるものなんだ」
と感じたのだ。
もちろん、そんなことは当たり前のこととして、頭の中では分かっているつもりだった。しかし、相手が示したオーラを自分では感じることができず、自分が人を好きになったとして、そのオーラを発散させ続けたとしても、
「きっと、相手は気付いてくれない」
と思うのだ。
それはあくまでも、考え方の基本を自分に置いて考えているからで、
「自分が感じることもできないものを、相手が感じることなどありえない」
という極端な思いがあるからだ。
だが、逆にものによっては、
「自分にできないことであっても、他人ならできるんだろうな」
という思いに至る時もある。
時間が違って同じ相手であったり、同じ事由について感じるのであるから、それだけ自分の考え方が一定していない証拠なのだろう。
そう思うと、会社では、さすがに社内恋愛というのはご法度だと思っているので、最初から考えていなかったが、近くのお店などで気になる女性がいなかったのかと言われると、実際にはいたような気がして仕方がない。
そういえば、一人、とても気になる人がいた。
その人は、近くのカフェでアルバイトをしていたが、素朴な表情があどけなさを誘い、笑顔に引き付けられた気がした。
カフェという場所なので、髪の毛の扱い方には制約があり、
「髪の長い人は、ポニーテールにするか、団子にして、帽子をかぶる必要がある」
ということになっていた。
髪が長くない人であっても、帽子をかぶるのは当たり前のことで、髪の毛を後ろで結んでいると、小顔に見えてくるような感じがしてきたことで、活発な雰囲気に似合っているのが分かったのだ。
彼女は他の男性客からも人気があったので、早々と諦めていた。
彰浩には、自分が好きになった人に、他にライバルがあると、
「俺ではかなわない」
と勝手に決めつけて、うまくいかないことばかりを想像するという、悪い癖と持っていた。
そのあたりが、
「自分は両極端な人間だ」
と考えてしまうところであり、自分では遠慮だと思っていたが、実は逃げであるということを分かっていない証拠でもあったのだ。
そんな両極端を考えると、自分のことを、
「二重人格なのではないか?」
と考えるようになった。
「片方が表に出ている時は、決してもう一つは表に現れない。もう片方が出ている時も、同じで、決して両方の性格が表に出ることはない」
と思われた。
そもそも、両極端な性格は合字に表に出るとどうなるのか? ということを誰も分かっていないであろう。
だから、人によっては、
「二重人格というのは、虚空の幻であって、そんなことはありえない」
と考えている人がいるのも事実であろう。
ただ、自分に分からないことを他人だと分かることもある。
自分の姿を見ることができるのは、鑑に写すか、あるいは、何かの媒体を使わなければいけない。
だが、他の人は対面で普通に見ることができる。だから、相手の方が自分の性格を理解していることもあるだろうということも決して無茶な発想ではない。
鏡に映った姿を見て、何か不思議に思わないだろうか? 科学的に証明されていることではないが、素朴な疑問として、
「鏡には上下では、逆さにならないが、なぜ左右対称の時は、左右に映っているのだろう?」
という問題である。