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逆さに映る

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「善悪を知ってしまうことで、思考回路が人間にあること、そして、人間には、その善悪の判断をするには、まだまだおこがましいということなのではないか?」
 と言えるのではないだろうか。
 そうやって考えると、人間社会における法律や秩序というものは、本当に正しいものなのかどうか難しい。
 さらに考えられるのは、
「善悪の善というのは、正しいということと、同意語だと考えてもいいのだろうか?」
 という考えであった。
 そもそも、この考え方というのは、
「人間至上主義」
 から来ているものではないだろうか。
 どうしても、人間は、これまで宗教によって、歴史が作られてきたと言っても過言ではない。
 ただ、その宗教を、その時々の、そしてその土地の権力者が巧みに使ってきたというのも、これもまた事実である。
 宗教の考え方によって戦争が起こったというのも事実であり、かつての十字軍であったり、欧州における宗教戦争と言われるものが、その例である。
 最近であれば、中東における戦争も、一種の宗教戦争ではないだろうか。
 そもそも、同じ土地が、まったく違う宗教の、
「聖地」
 だというのも、おかしな気がするのは、彰浩だけであろうか?
 聖書というものも、キリスト教のバイブルであり、宗教とは違うが、
「ギリシャ神話」
 であったり、
「ローマ神話」
 と言われるものも、人間への警鐘のようなものなのかも知れない。
 実際に、聖書とギリシャ神話、ローマ神話の中に、似たような話が出てくることもあり、
「一体この時代、どのような考えの人がいたのだろう?」
 という興味に誘われると言ってもいい。
 ただ、ギリシャ神話などは、神と人間の世界は。近いものであるが、決して見ることのできない、
「結界」
 のようなものがあるのも事実で、ハッキリとその存在を感じている人も多かったのかも知れない。
 その結界は、神の世界にもあるようで、全治万能の神といわれる、
「ゼウス」
 が仕切っているのだが、ゼウスというのがかなりの嫉妬深い神であり、嫉妬によってどれだけの物語が生まれたか、
「ギリシャ神話というのは、嫉妬の文学だ」
 と言ってもいいのではないだろうか。
 ゼウスは、神の中で絶対の力と権力を持っている。わがままし放題と言ってもいいのだろうが、人間社会においても同じように、独裁者が出てくると、世の中の勢力バランスは崩れてしまう。
 その影響は、生態系にも及ぶもので、自然環境破壊にも及ぼすものなのかも知れない。
 今の世界で起こっている、
「自然災害」
 であったり、
「謎の伝染病の流行」
 などは、どこかの独裁者の所業が、人類に対して、巡り巡って、大きなブーメランとなり、戻ってきているのかも知れないと感じるのだった。
 その時感じるのは、
「ハツカネズミやハムスターなどが、檻の中で玉のような回転する中で、必死に走っても先に進まないという、永遠のスパイラルを描いているのと似ているのではないだろうか?」
 そういえば、あれは、かなり昔のテレビで見た覚えがあったのだが、確か何かの特撮であったと思う。かなり昔の放送を、CSで見たのだが、その時に心の中に残ったセリフとして、
「それは、血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ」
 という言葉が思い出されるのだった。
 あれは確か、時代背景に、ソ連とアメリカによる、
「冷戦」
 というものが背景にあった気がした。
 ちょうどその五年くらい前に勃発した、
「キューバ危機」
 がその根底にあったのではないか。
 つまり、核軍拡競争というものであり、
「相手がこちら以上のものを作れば、こっちも相手以上のものを作る」
 という負のスパイラルであり、さらに、
「持っているだけで、使わなくとも、平和は守れる」
 という、抑止力だということが、軍拡の根本だった。
 しかし。
「いったん、発動されると、そこに待っているのは、一瞬にして破滅しかないことを悟る瞬間が来る」
 ということであり、いかに軍拡がその先にあるものは、破滅しかないということを証明しているということが分かるということであった。
 これも、一種の宗教戦争に似ているのではないか?
 自国を防衛するという理由が、相手を破壊することにすり替わってしまうと、
「攻撃こそ、最大も防御」
 という言葉を履き違えてしまうのではないかと思わせるのであった。
 確か当時の、アメリカ大統領、ケネディを悩ませたのは、
「アメリカを始めとする世界中の子供たちが死んでいくという悪夢を見たことだ」
 というものであったという話を聞いたことがあった。
 相手との交渉もさることながら、一番の問題は、勘違いや錯誤によって、核ミサイルのボタンが押されてしまうことだった。
「自分たちに向かって、核ミサイルが飛んでくるということは、到着した瞬間に、破滅しか残されていないということで、核ミサイルのボタンを押してしまうと、終わりなのだ」
 ということであった。
 こちらに向かって飛んでくる核ミサイルがあれば、もうそれを途中で撃ち落とすことはできない。撃ってしまえば、迎撃しても、そこで核爆発が起こる。それはありえないことだった。
 そうなると残された道は、
「相手も道連れにして、ともどもに滅亡することだ」
 ということで、こちらも核ミサイルを発射することだろう。
 抑止力として持っていただけのミサイルの発射は、破滅しかないということも分かっていたはずだが、そうなっては仕方がない。
 つまりは、
「二匹のサソリ」
 と同じことである。
「自分たちは相手を殺すことができるが、相手もこちらを破滅させるだけのものを持っているので、先制攻撃であっても、死でしかない。つまりは、動いた瞬間に、二匹ともこの世にいないという構図しか残されていないということなのだ」
 というのが、二匹のサソリの考え方だった。
「血を吐きながら続けるマラソン」
 とはそういう意味であり、あれから。五十年以上も経った今でも語り続けられる名言であったのだ。
 そういう意味でいえば、当時からのテレビ黎明期からの拡大期においては、このような教訓的な話が多かったような気がする。
 歴史の勉強にはもってこいなのではないかと思えるが、彰浩はそういう意味で、昔の特撮などを見るのが好きだった。
「どうも今の特撮は話の規模だけは大きいが、説明として成り立っていないので、薄っぺらい気がするな」
 と、考える。
 世の中のタブーと言われるものに真剣に取り組んでドラマやアニメ、特撮につなげようという発想はないのかも知れない。
「難しすぎると、子供がついてこれない」
 と考えるからであろう。
「禁断の果実」
 に手を出すことは一体どういうことなのか、今自分の目の前にあるものとして
「近親相姦」
 というものが、善悪の判断ということになれば、まず間違いなく、悪になってしまうのだろう。
 近親相姦というと、前述のように、忌み嫌われるものとして昔から言われてきた。
 これこそ、イブが口にしたことで、恥じらいという意識が生まれて、その時に齧った禁断の果実の意識が、
「近親相姦というのは、いけないことなのだ」
作品名:逆さに映る 作家名:森本晃次