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逆さに映る

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 そして、生きるには糧だけではなく、生きている意味を自分で分かっていなければ、生きていくことなどできないのだと、絶望に苛まれ、自虐でしか生きることができなくなったことの怒りは、復讐で埋めるしかないではないか。
「私は一体誰に復讐すればいいのか?」
 と、考える。
 父親なのか、母親なのか。自分が兄妹である両親から生まれたことが、生まれてきた瞬間から悪夢が始まり、間違った世界が広がってきた。
 つまりは、
「自分は生れてきてはいけない存在」
 であり、愛し合った人と結婚すると、自分たちがまた、同じ鬼畜になってしまうということになるのだった。
 両親との違いとしては、
「自分たちは知らなかった」
 ということだけである。
 確かに知らなかったということには違いないだろう。だが、知ってしまった以上、ここから先は、同じである。
 確かに両親は、兄である父親の欲望が引き起こした悪夢ではあったが、母親も、堕胎することもなく、産み落としたことに罪はないのだろうか?
 確かに、堕胎という行為は、殺人罪だという考えもある。近親相姦を、
「悪いことだ」
 としている連中の考え方で図れば、堕胎は同じくらいの罪であろう。
 しかし、生まれてきてから、すでに他の子供とスタートラインから不利である状態なのだから、この先、どうやっても、彼らの先に行くことはおろか、並ぶことすらできないのである。
 昔であれば、人知れず、
「悪魔の子」
 として、葬られた事実があるという近親相姦による子供である。
 探偵小説の犯行の動機としては、復讐を企てるには、相応の動機であったりもするだろう。
「俺たちは生れてきてはいけなかったんだ」
 と言って、何度嘆いたことだろう。こんな自分を、一時の快楽だけで産み落とした両親を道連れに、自分もこの世から抹殺するくらいの気持ちだったのだ。
 実は、犯人の本当の最終的な目的は、
「自分の抹殺」
 であった。
 両親への復讐は当たり前のこととして、自分の中での復讐の正当性は、
「俺が生まれてきてはいけない子供だった」
 ということである。
 その思いがあるから、
「親はそんな子供である自分から殺されるべきなんだ」
 という理屈が生まれ、親を殺す正当性に結び付いてくる。
 ただ、その前提には、
「自分が悪魔の子であり、生きていてはいけない」
 という思いがあるからで、それを思い知らせる必要があるのだ。
 悪魔というものは、皆の心に住んでいる。住んでいてくればければ、自分が殺人を犯しても、それが教訓にはならないからだ。
 別に自分は聖人君子ではない。ただの悪魔の子なのだから、教訓などというのはおこがましいが、それでも、人を殺そうとするのに、理由が必要なのは、同じであった。
 それは自分を殺すことに対しても同じことで、この犯人の場合は。
「自分を抹殺するために、両親も殺す必要がある」
 という思いもあった。
 もちろん、好きになった相手である妹の復讐というのが、一番の動機であったが、それはあくまでも、
「両親を殺す」
 という動機であって、それは初期のことであった。
 途中から、両親を殺す意義に、彼女の復讐ということを天秤に架けてみると、復讐心というものが、別のところに波及しているかのようで、殺すための意義が薄れていき、
「このままだと、両親を殺すという気持ちに整理がつかなくなって、ずっと自分の気持ちが彷徨ってしまい、自分への決着もつけられなくなる」
 と感じたことで、殺害の気持ちが躊躇に変わり、最終的に自分が生きている意味が分からなくなってしまう。
 新たに何かの意義を見つけることで、
「こうなったら、最終目的から、強引にその理由を見出すしかない」
 という風に感じた。
 自分にとっての最終目的というのは、
「自分で自分を抹殺すること」
 であった。
 復讐を遂げたことを彼女に報告するのが、その意義だったのだが、どうも違っている。
「自分で自分に決着をつける」
 ということが、すべてではないだろうか。
 ただ、
「死んでしまったら、すべてが終わりだ」
 ということは分かっていたが、その本当の意味を分かっていなかったのかも知れない。
 近親相姦の話ばかりを読んでいると、感覚がマヒしてくる。そして、
「近親相姦は悪いことだ」
 という感覚を植え付けられるのだ。
 しかも感覚がマヒしてしまっているから、この、悪いというイメージがこびりついてしまっているのだ。感覚がマヒしてしまうと、疑うという気持ちがマヒしてしまっているということを表しているのだろう。
 ただ、人間は、年齢を重ねると、
「性格は変わらないが、性質は変わることがある」
 と言われることがあった。
 性質としては、食事などで、飽きが来やすいかどうかということであった。
「子供の頃は、大好きなメニューは、数か月続けても飽きがこない。半年くらい続けても、まだ食べたいと思うが、大人になるにつれて、すぐに飽きるようになり、どんなに好きでも、数回続ければ、もう見るのも嫌だ」
 と思うくらいになっていたのだ。
 そういう意識が性欲にも出てきたような気がした。
 二十代前半までは、好きな女の子であれば、毎日でもセックスをしてもいいくらいで、「一日に何度でもできるくらいだ」
 と、思っていたが、そのうちに、飽きが来るようになってきた。
 そのせいもあって、二十代後半くらいになると、それまで女性をフッたことがなかったはずなのに、その頃になると、気が付けば、急に態度が変わってしまっていたようで、
「私のことを嫌いになった?」
 と言われて、ショックを受けたことがあった。
「そんなことはないよ」
 と言っていたが、自分でもなぜ相手にそんな風に言われるのか分からなかったし、もちろん、飽きっぽくなっていることにも気づかなかった。
 それが、感覚がマヒしてしまっている証拠だろう。
 しかし、別の女性を思うと、身体が必要以上に反応する。
 二十代前半までは、
「好きな相手ができれば、他にどんなに可愛い人がいたとしても、意識はしない」
 というのは、きっと、好きな人ということであればあるほど、感覚がマヒしてしまっているのではないかと思うのだ。
 確かに、いくら気持ちがいいことであっても、同じことを長く続けていると、気持ちよさの感覚がマヒすると、敏感すぎて、それが嫌いな感覚になってしまう。
 だから、好きになった気持ちは変わらないのだが、それ以上に身体あ瓶間になり、まったく興奮しなくなるのだ。
 相手を満足させることができなくなり、相手も自分のことを好きになってくれたことに喜びを感じているのに、身体が反応しないことに対して、相手は、
「私のことを嫌いになったのかしら?」
 という疑心暗鬼にさせられる。
 態度も嫌いになったという態度であれば、
「私のことを嫌いになったのなら、もういいわよ、私の方か願い下げだわ」
 と言って、意地になることができるのに、相手は今まで通りに優しく接してくれているのに、その態度がいかに身体と精神でのギャップを感じさせるかということを感じると、中途半端な気持ちになり、疑心暗鬼がそのまま、すれ違いで終わるという、消化不良の関係で終わってしまう。
作品名:逆さに映る 作家名:森本晃次