逆さに映る
そもそも、SMを名乗ってはいけない人ではないかと思うと、その言葉がブーメランとなって自分の帰ってくるような気がした。
だが、ゆくゆく考えてみると、彼女が、
「私はMなの」
ということを口にしたことはなかった。
彰浩が勝手にそう思い込んで、相手をMだとして扱ってきたことが、彼女の中に、彰浩のことを何も感じないような感情にしたのかも知れない。
そう思うと、彰浩は、一体何を信じて相手を見ればいいのか、想像もつかなくなっていたのだ。
もっとも、こんな相手は珍しかった。いかにも、
「Mに限りなく近い。ノーマルというべきか、ノーマルの範囲の中での一番の変態と言ってもいいだろう。中の上というよりも、上の下と言った方がいいくらいで、かろうじて状の方に傾いているといえるくらいではないか」
と感じたのだった。
何度も同じことを繰り返しているうちに、
「俺って、SMの領域に踏み込んではいけない人間なのかな?」
と感じた。
SMプレイに興味があるというよりも、SMの関係に興味があると言った方がいい。
緊縛も、ロウソクも、ムチもほとんど興味はない。他のSMプレイにも興味があるわけではない。興味があるのは、Mの女の子から慕われたいという思いが強いからだった。
だから、自分はSだと自分で自分にいい聞かせて、Mだと思った子には、それを思いこませることで、自分を慕ってほしいと考えていた。
だが、相手が本当にMでも、彰浩の本性を知れば、ご主人様として慕うことはできないと思うのではないだろうか、そう思ってしまうと、相手が自分になかなか信頼を置いてくれない理由も、相手が悪いわけではなく。根本的な原因は自分にあるということを、思い知るしかないのであろう。
彰浩という男は。何となく分かっていても、それを誰かに言われるか、別の意味で罵倒されない限り、自分で認めたくないと思うのだった。
人から指摘されると、
「やっぱりそうなんだ」
と、最初から分かっていたかのように見せることで、まわりから。
「言い訳をしている」
と言われるであろうが、本当は言い訳なんかではなく、もっとたちが悪いということになるのではないだろうか。
そんなお互いに決して交わらない平行線の上を歩いているのだから、すれ違った時、
「何かおかしい」
と感じるだけで、相手が見えなくなるまで自分で勝手に思い込んでしまい、すでにダメだということを理解しようとしても、プライドが許さないというおかしなことになってしまうのだるう。
悪循環のスパイラル
結局、身体の関係になることはあっても、それ以上の深い仲になることはなかった。
今から思えば、
「それでよかったんだ」
と感じる。
このまま、ズルズルとSMの世界に入って、SMの世界にどっぷり浸かってしまうところまで行ってしまうと、後戻りできないか、行き着いたところで、危険が現実となって、相手をひどい目に遭わせてしまいかねないと思うとゾッとするのだった。
やはり、SMプレイというような行為は、自分にはできるものではない。どんどん深みにはまってしまうと、怖いくせに、後戻りができなくなり、気が付けば、吊り橋の途中まで行っていて、先に進むも、戻ることも恐ろしくてできなくなるだろう。
それでも思うことは、間違いない、
「来た道をも採りたい」
と感じることだ。
ここまで来ていても、元に戻ればリセットできる。しかし、一度先まで行ってしまうと、元に戻るには、同じ道を通らなければいけない。もう一度恐ろしい思いをすることを考えれば、前に戻るかしないという思いに至るのも仕方がないことだろう。
「前にも後ろにも行けない時は、戻ることしか考えていない」
と思うのだった。
ただ、それは、逆に、
「百里の道は九十九里を半ばとす」
という言葉で考えれば、元に戻ることはできそうだ。
きっと、端の上で困った時は、この言葉を思い出して、来た道を戻ろうとするだろう。
だが、、肝心なことを忘れている。
「途中から引き返した時点で、戻るのも言っているのと同じで、九十九里まで来て、まだなかばだと思うのではないか」
と思うのであった。
確かに、それを思うと、元に戻るのも同じ危険がある。その時点で、端が大きく揺れるのではないかと思うと、恐ろしくて、九十九里の地点にはとどまってはいけないということに気づくのだった。
そして考えるのは、
「なんで、最初に渡ろうと思ったのだろう? そんなことを思わなければ、苦しむことも、何もなかったのに」
と感じた。
そして思うこととして、
「こんなに行ったり来たりしていると、果たしてどちらが出発点だったのかということが分からなくなってしまうのではないだろうか?」
という思いであった。
つまりは、この吊り橋自体が、SMという世界であり、最初からできもしないのに、踏み出してしまったことに対して、後から後悔しても始まらないということではないのだろうか。
それを思うと、吊り橋の正体が何なのか、見えてくるような気がした。
しょせん、この場合の吊り橋というのは、自分の恐怖から来た妄想が作り出した、虚空の世界なのではないだろうか。
虚空の世界は夢の世界であり、覚えていない夢の内容を、こうやって、急に思い出すことがあるというのは、
「何かの辻褄合わせではないか?」
と感じるようになったのだ。
吊り橋というものの恐怖は、実際に渡ったことはないのに、恐怖として感じているのは、前世化何かの記憶が残っていて、遺伝しているのではないかと思えるのだった。
恐怖に至るには、何が問題なのかと考えると、
「自分で自分を、信頼もできないくせに、怖いことに挑戦しようという行為が、いかにも無謀であるということを分かっていないからではないだろうか?」
と感じるのだった。
「SMプレイ以外にも踏み込んではいけないものがある」
と思うのだが、きっといつも吊り橋が見えていることであろう。
大学時代には、そんなことを繰り返していて、恋愛に関しては、まったくうまくいかなかったという経験しかなかった。
「普通の恋愛をしようと思えばできたかも知れない」
とも感じたが、果たしてその思いは間違いのないものなのかということが自分でも分からなかった。
なぜそう思ったのかというと、
「普通の恋愛という言葉の、普通という意味がよく分からない」
という感情であった。
何しろそれまで、自分のことを、
「Sなんだ」
と思い込んできたからなのだが、それが、思い込みであり、ただ女性に慕われたいという気持ちが、SMにおける信頼関係のようなものを自分で気付けるというのが思い込みだったのだ。
信頼関係がどういうものなのか分からず、漠然と慕われたいという思いが募っていたことが、自分をSだと思い込ませた理由なのかも知れない。
そのうちに、就職活動をするようになり、結構自分なりに自信もあったのだが、目指していた一流企業は、すべてがダメで、少しランクを落としたくらいのところも、全滅だった。