逆さに映る
まず、プロットを書く前の企画を立てなければいけない。いわゆる原案を決めて、それを編集担当者に示して、これが編集社の編集会議によって、その企画で本を書いていいかどうかが決まるのだ。
ほとんどプロットに近いものになるのかは、その時の状況によるが、ジャンルと時代背景、さらには、登場する場所であったり、登場人物がどれくらいになるかである。
短編になるか長編になるかは、編集社の方から言われるのであるが、その長さによって、ある程度の登場人物の数や、小説の規模が決まってくると言ってもいいだろう。
それが、編集会議で企画が通れば、そこからプロットに落として、それから本文を書いていくことになるのだが、プロットの書き方は人それぞれ、企画の段階でできているものもあるが、それ以外に、作者の立ち位置として、一人称形式で書くのか、三人称形式で書くのか、その両方を加味した形の神視点という形のものが一般的であろう。だが、なかなか神視点で書くことは難しいので、プロになるほど、神視点で描いている人は少ないかも知れない。
小説の作法には他にもいろいろあるのだが、プロットというのは、そのあたりを加味して作るものだ。
だが、プロットには決まった形があるわけではない。
「最低限に必要なもの」
というのが揃っていれば、それでいいのだ。
小説を書いていると、書き方が偏ってしまう場合がある。特にプロットの段階でどこまで書き進めるかというところが分岐点になったりする。
プロットを完璧に書いてしまう人もいるが、完璧に書いてしまうと、それを文章として落とした時に、枝葉になる部分が頭のなかで膨らんでこなかったりするのが難点ではないだろうか。
曖昧なところまで書いて小説を書き進めていくと、最初からふくらみがあるわけではないので、いくらでもニュートラルな状態から、いろいろと枝葉を膨らませることができる。
プロの作家がどういう仕事をしているのかということまでは知らないが、プロットの書き方まで編集者の人からいろいろ言われることはないだろう。あくまでも、自分の中での設計図であって、編集者が求めているのは、完成品でしかないはずだからである。
それを思うと、
「プロットも完全なものにしないようにするのが無難なのではないか?」
と感じるのだった。
マンガのネームがどういうものかは知らないが、ネームも同じではないかと思っている。マンガと小説の違いは感覚的に分かっているので、ネームも分かる気がする。だが、やはり書くとすれば小説だと思っている彰浩は、高校時代には、小説ばかりのことを考えていた。
もちろん、大学受験というのも考えていたので、勉強が第一だったが、勉強だけではなく、小説を書くということが自分にとっての気分転換になることで、結構気が楽な気がしていた。
受験勉強をしている時は、
「受験勉強をするよりも、小説を書くことの方が楽なのではないか?」
と思い、逆に小説を書いている時は、
「小説を書くより、受験勉強の方が楽だ」
と思っていることで、それぞれのことをしている時は、きついと感じてはいたが。解放されて、もう一つのことをしようとすると、そちらの方が気分転換だと感じるようになると、今度は、すべてが気分転換ではないかと思うようになり、
「俺だったら、何でもできるんじゃないか?」
と感じるようになったのだった。
おかげで大学も国立大学に進むことができ、いつの間にか、
「俺って頭がいいんじゃないか?」
という自惚れを持つようになっていた。
だが、この自惚れは思ったよりも大きなものだったが、自分では、
「まだまだ足りないくらいだ」
と思った時期もあった。
特に国立大学に入学できたことは、ある程度まで自信はあったが、本当に入学できるとまでは思っていなかった。
小説を最後まで書き切った時のことを思い出したが、あの時の感覚に似ていた。
あの時は最後まで書き切ることができたおかげで、やっとスタートラインに立てただけなのに、そのことが、
「自分の中で、自惚れても問題ないのではないか?」
と感じさせるようになったのだった。
禁断の関係
大学に入ると、勉強もさることながら、小説を書くことに集中し始めた。二年生の頃までは、
「せっかく書いているんだから、プロになりたい」
と思っていて、出版社系の新人賞に何度か送ったりした。
しかし、最終選考に残ることもなく、二年間は文芸サークルに入って、そこで機関誌を定期的に発行し、フリーマーケットで出展したりという地味な活動をしていた。
その間にも、SNS系の無料投稿サイト、もちろん、異世界ファンタジーが主流ではないところのサイトに登録し、いくつもの作品をアップしていたりした。
そういうサイトのほとんどは、商業販売している小説でなければ、他で発表していても、別に問題ないというところが多く、あくまでもオリジナルであれば問題ないというところばかりであった。
そういう意味では気も楽だったし、文庫本でいえば、百数十ページくらいの中編小説を中心に書いていた。
それらの作品を、月一くらいで発表していたので、二年間で三十近い作品ができていたのだ。
最初の頃は、小説を書いていても、完璧な作品に仕上げようと思い、何度も読み直して仕上げることで、最初に書くよりも、仕上げる時間の方が数倍時間がかかっていた。
しかし、プロになるという意識を捨てることで、ほとんど読み直しもせずにアップするようになると、そこから先は、半分の時間で作品を作れるようになり、大学在学中では、百近い作品ができたのは、自分でもビックリだった。
作品は、書いているうちに、どんどん発想が生まれてくるのだ。プロットは書いていても、書いているうちに生まれてくる発想を加えていくことで、どんどん枝葉が増えてきて、プロットとは違う作品になったり、下手をすれば、違うジャンルになることもあった。
だが、それも別に問題ではなかった。
プロ作家のように、
「最初に通した企画通りに書きあげなければならない」
などという制約があるわけではない。
自分で好きなように書いていけばいいだけなので、出来上がった小説を見ていて、気になるところは、次第になくなってくるのだった。
「書いている時には、違和感のようなものがあったけど、書きあがったものを読んでみると、結構様になっているではないか」
と思うのであった。
考えてみれば、結構奇抜な小説を書いたりしたものだ。恋愛小説などでも、不倫や先生と生徒の愛などという禁断の恋について書いてみたり、その描写も、官能小説顔負けと思うくらいのきわどい書き方をしたりもしていた。
しかし考えてみると、官能小説というのも、実は結構難しいものだという。
ただ、興奮させるだけの、エロ小説もあれば、人間の悩みは欲望、本性などが、心と身体を支配するようになり、たまらなくなってきた感情をいかに表にはじき出すかということを書きあげるのもまた、官能小説である。