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逆さに映る

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「自分が描いている小説の情景が、二次元で想像したことと、文章になって三次元として描き出しているつもりの内容が、狂ってきている気がする」
 と感じるのだった。
 そう思えてくると、二次元を三次元にすることの苦しみを次第に感じるようになってきて、今度は、自分の書いている小説に対して、疑心暗鬼になってくるのだった。
 最初は、
「自分には表現できないのではないか?」
 という謙虚さ、つまりは、誰にでも通るべき道を通ってきただけなのだが、その次の扉は、人によって違っているようだった。
 彰浩の場合は、二次元を三次元にしようとしているところで引っかかったのであって、そもそも小説を書いている人の中に、どれだけ作品を作っている間に、三次元というものを意識するかということである。
 中にはまったく意識せずに通り過ぎる人もいるだろう。
 ただ、それは本当に意識していないわけではなく、意識はしているが、無意識のうちに通り過ぎているということで、意識をしていないという思いに至っている人も少なくはないだろう。
 彰浩にとって、この壁は結構強いものだった。そのせいで、今でもたまに小説を書いてみたいと感じているくせに、先が見えないまま、右往左往しているのではないかと思っている。
 そのうちに、趣味として小説を書いているつもりだったが、そのうちに、趣味としても口にするのがおこがましく感じられるようになった。
 最初の第一関門である、
「共通の壁」
 と通り越した時は、
「俺は小説を書いているんだ」
 と言って、まわりの人に話すこともおこがましいとは思わなかったが、ここでぶつかったスランプは、超えるまで、おこがましいという認識が頭の中にこびりついてしまっているのだった。
 小説を書いていると、うまく描ける時と、まったく書けない時のそれぞれが存在する、
 うまく描ける時の、
「かける」
 という文字は、
「書けるではなく、描ける。つまり、えがけるということなのだ」
 と考えていた。
 それは分かっているつもりである、だからこそ、二次元を三次元にして想像することはできるのだが、
「創造することができない」
 のである、
 頭に思い浮かべることはできても、それを文章に落とし込んで、作品として作りこむことができないのだった。
 そんなことを考えていると、急に、
「自分が二重人格なので、書けないのではないか?」
 と思うようになった。
 しかし、自分の中で、二重人格というのは、誰にでもあることだという認識があるので、次の段階に発想が浮かんでくる。
 次の段階というのが、二重人格がいかに交わることのない平行線であるかということであり、それを証明するためには、
「二次元ではダメなことを、三次元で証明する」
 ということが必要になってくる。
 頭では分かっているのだが、それが小説世界のこととなると、どうしてもできない。
 それは、、最初の段階での悩みでもあった。
「俺が小説を書くなんておこがましい」
 というような発想に陥ることだった。
 そう思ってしまうと、できるものもできないと感じられ、それこそ、
「俺は自分に自信がない男なんだ」
 という思いが表に出てきた、
「もう一人の自分になってしまった」
 という思いに至るのであった。
 そして、その頃に感じたのは、
「小説とマンガというのも、交わることのない平行線のようなものであり、両立することはできないのではないか?」
 と感じるようになったのだ。
 だが、実際にはマンガ家でありながら、小説を書いている人もいたりする、彰浩の考えが違っているのか、それとも、彰浩が想像もつかないような人が、実際には。まだまだたくさんいるのかのどちらかであろうが、それを思うと、
「小説を書くのと、マンガを描くのは、どっちが難しいのだろう?」
 と感じた。
 そして。その考えと比例するかのように、
「この二つのどちらか難しい方が、芸術家として優れているかということを表している」
 と感じたのだ。
 彰浩としては、
「小説家であってほしい」
 と思っている。
 小説は文章なので、誰にでも書けるが、絵画に関しては、感性が必要なので、絵の方が優れていると思っていたが、実際には、
「絵を趣味などで描いている人は結構いるが、小説を趣味であっても書いているという人はほとんど見かけない」
 というではないか。
 確かに小説を書いているという人はほとんど聞かないが、喫茶店などでにある雑記帳に、絵を描いている人はたくさんいる。描けるというだけでもすごいと思うのに、しっかり、特徴も捉えていて、マンガタッチのアレンジもしっかりと加えている。それを思うと、
「絵を描けるようになることというのは、思っているよりもそんなに難しいことではないのではないか?」
 と思ったくらいだ。
 しかし、自分には絵を描くことができない。小説であれば、
「最初の段階を超えさえすれば、後は書き続けるだけであり、一度、最後まで書き終えることができれば、それが趣味として書けるだけの素質を手に入れたようなものであると、言えるのではないだろうか。
 さて、小説を書けるようになると、
「もうここから先はさほど悩むこともないだろう」
 と思っていたが、それも間違いであった。
 あくまでも、第一の難関というのは、
「スタートラインに立つことができた」
 というだけのことであって、スタートしてから、最後まで皆同じベースということはありえない。
 皆がペースの違いによって順位が生まれてきて、そこからゴールを目指していくうえでどのような順位であっても、一位でゴールできれば、勝ちなのである。
 トラック競技と一緒にしてしまうのは、いかにも乱暴であるが、小説とマンガという、芸術にまったく興味のない人から見れば、
「五十歩百歩」
 に見えているのではないだろうか。
 小説も、マンガも同じように設計書を必要とする。小説ではプロットといい、マンガではネームというが、彰浩が小説を書く時、最初の頃はプロットも書かずに、いきなり書き始めていたものだ。
 今では、プロットを書けるようになったのだが、それも、最初にプロットを書いていなかったからできていることなのかも知れない。いつの間にか、
「とにかく下手くそでもいいから、最後まで書けるようになることが、スタートラインに立つことだ」
 と考えていたのだ。
 だから、プロットを書かずとも、小説の展開に応じて、ストーリーが変化していったが、別に出版社を経由して、商業本を販売するわけではないので、いくらでも、自分のやり方でできるのだ。
 最後まで小説が整っておらず、最後に辻褄を合わせたとしても、それがストーリーとして成り立っていれば、ラストで一位になっているのと同じことで、勝負に勝ったと言ってもいいのではないだろうか。
 それを思うと、小説を書きあげることが、一番大切なのだという原点に、また戻ってくることで、小説を書きあげることはできるのだと思っていたのだった。
 これが実際のプロともなると、順番が変わってくる。
作品名:逆さに映る 作家名:森本晃次