いたちごっこの、モグラ叩き
という感情があらわになり、それがプレッシャーになっていくのを、自ら感じるのではないだろうか。
幸いなことに、今まで運転中に急に何かを思い出したり、意識が朦朧としたことはなかったが、いつ何時あるか分からないという危惧も少なからず持っていた。
その危惧の中に、
「人間というのは、一つのことだけであれば我慢することができるが、二つ重なってしまうと、そうは我慢できるものではない」
という感覚が一つあることは分かっている。
最近では、部分的な記憶喪失でありながら、意識が朦朧としている時間が長いような気がしてならなかった。
これは、
「自分の中にもう一人の自分がいて、その自分が勝手に暗躍Sいているのではないか?」
という発想であった。
まるで、、
「ジキル博士とハイド氏」
の話のようではないか。
あの話はジキル博士の開発した薬を使って、一人の中にいるもう一人を覚醒させるというような話であった。
鶴岡が自分の中に、もう一人の自分の存在を感じ、その自分が表に現れているのを感じると、ジキルとハイドの話のように、
「一つの人格が表に出ている時は、もう一つの人格は隠れていて、逆もありうるのではないか?」
ということを考えると、部分的記憶喪失という発想も分からなくもない。
以前読んだホラーの話の中に、少しニュアンスは違うが、ジキルとハイドの話を考えた時に浮かんでくる発想があったのだ。
「自分の前に、もう一人の自分がいる」
という発想で、主人公には恋人がいるのだが、その恋人のところに行く時に、いつも、別々の花をプレゼントとして持っていくのだが、彼女の部屋に入って花をプレゼントすると、すでに、同じ花が彼女の部屋の花瓶に飾られているのだ。
「また、来たんだね?」
というと、彼女は悲しそうな眼をして、
「ええ」
というのだ。
主人公は、花瓶に生けてある花をわしづかみにして、引き抜くと、乱暴にゴミ箱にその花を捨てた。忌々しいと言わんばかりのその姿に、彼女は何も言えない。
主人公は急に優しくなって、自分が持ってきた花を花瓶に生けると、余裕を持った顔をして、そのまま彼女を抱くのだった。
彼女は逆らうことができない。抱きしめてくる相手を受け入れるしかないのだ。
「ねえ、あなたが本当のあなたなの?」
と、抱きしめられながら、彼女は聞くと、
「ああ、そうだよ。決まっているじゃないか?」
と、余裕を見せていうのだが、一番その言葉を信用できないのは、他ならぬ主人公本人だった。
最初の花を持ってきたのは、もう一人の自分。まったく外見では判断できないくらいに似ていて、認めたくはないが、もう一人の自分だった。
だが、それはいわゆるドッペルゲンガーというものではないか?
ドッペルゲンガーというのは、見たら死ぬという伝説がある。自分も死んでしまうんだろうか?
その男がドッペルゲンガーだと思ったのは、
「前に来た俺は、何か話をするのかい?」
と聞くと、
「いいえ、口をきいたことが一度もないのよ。ただ、あなたが現れるまで、五分しかないので、すぐに帰っていくのよね」
と言われて、
――ドッペルゲンガーは、言葉を発しない――
ということだったので、その相手がドッペルゲンガーであることに間違いないと思ったのだ。
だが、自分がドッペルゲンガーであるという考えもないわけではない。言葉を話しているから、ドッペルゲンガーではないという確信を持っていたが、果たしてそうなのか、疑問に感じていた。
だが、これをドッペルゲンガーという発想ではないもので考えた時、思いついたのが、
「ジキルとハイド」
の話だった。
だが、こちらの方が考え方としては難しい気がした。一人の人間の人格の違いによって、身体をうまく使い分けるという考え方が果たして、何かの力を介さずにできるのだろうか?
ドッペルゲンガーのように、都市伝説であれば、また発想が違うのだが、小説のネタになりそうなことであれば、そこに人の力を介するという考え方になるのではないか。ただ、そこに、部分的な記憶喪失という発想、さらに、
「人間というのは、一つのことだけであれば我慢することができるが、二つ重なってしまうと、そうは我慢できるものではない」
という発想が絡んでくるので、段階的に発想が発展していくことに、自分がどこを着地点として考えればいいのか、考えがなかなかまとまらないのだった。
そんなことを考えている時、鶴岡の近くで事故が起こった。ただの事故なのか、それとも事件が背景にあるのか、その時は、まだ誰にも分からなかったのだ。
記憶喪失の定義
鶴岡の最終バスが通り過ぎた、例の住宅街の麓の交差点から少し上がったところでのことだった。
坂を上っていくところのバス通りの左側には、川が流れていて、歩道とガードレールがあるのだが、歩道を乗り越えて、ガードレールも突き破って、その先の川に、車が転落するという、悲惨な事故が起こったのだ。
車は大破して、川の下に衝突し、まるでアコーディオンのように、車体が波打ったかのようにグシャグシャに壊れていた。
だが、奇跡というには不思議なことに、運転手はギリギリのところで放り出されてしまったのか、車と運命を共にすることはなかった。
「シートベルトをしていなかったのが、功を奏したのか?」
と言われたが、その時意識を失ったまま、病院に運ばれたが、命には別状ないということで、意識の回復を待った。
しかし、なかなか彼女が正気を取り戻すまでには時間がかかり、気が付いた時には、事故から三日が経っていた。
だが、彼女は記憶を失っているようだった。自分が誰であるか、どういう人間であるかということや、自分の知り合いに関しては覚えているのだが、事故の瞬間から後の記憶がまったくなかったのだ。
正確にいえば、事故が起こる前からであり、その日の最初から記憶がなかったと言ってもいい。
どうして、あの場所にいたのか、ということだけではなく、その日の朝からの行動が完全に抜け落ちているのだ。
これは、部分的な記憶喪失と言えるだろうが、鶴岡の場合と違って、明らかに記憶を失うだけのきっかけはあったのだ。
事故を起こしてしまった。あるいは、事故に巻き込まれたのか、とにかく自分の身に起こった不幸な事故によって、衝撃を受けたことで、自分の意識がまったく狂ってしまったのだと言ってもいいだろう。
とにかく医者としては、
「気長に様子を見ていくしかありませんな」
というしかなかったのだ。
鶴岡は最初知らなかったのだが、その事故を起こした人というのは、女性だった。自分も定期的に寄る神経内科の病院に、彼女も通っていたのだ。お互いに、部分的な記憶喪失なのだから、精神内科に通っているとしても、それは別におかしなことではない。
ただ、その女性を見た時、思わず、
「あれ?」
と声を掛けてしまった。
相手の女性は、一瞬ビックリして鶴岡の方を見たが、その表情は、何にビックリしたのか分からないくらい、目の焦点が合っておらず、いかにも、
「記憶喪失」
の様相を呈していたに違いない。
作品名:いたちごっこの、モグラ叩き 作家名:森本晃次