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いたちごっこの、モグラ叩き

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 だが、鶴岡の方はそうもいかなかった。明らかに知っている人であり、その変わりように、ビックリしないわけにはいかなかった。
 これでもかというほど、目を見開いて相手を見つめたが、彼女はひるむことなく、こちらを見つめていた。
 お互いに目が会ってしまうと、今度はそこから視線を逸らす頃ができなくなった。瞬きもできないほど見つめていると、彼女の顔が次第に小さく感じられてきて、その顔の後ろに見える、誰かに見られているような気がしてきた。
――まさか、もう一人の自分ではあるましし――
 と、急に夢を思い出した。
 忘れていたはずの夢だったのに、思い出すと、
「あの時の夢だ」
 と、分かってしまうところが怖い。
 やはり完全に忘れていたわけではなく、記憶の奥に封印されていただけで、何かのきっかけで、その封印が解かれるということではないだろうか。
 相手も必死にこっちを見ていて、目の焦点が合っていないように感じたが、目の焦点が合っていないわけではなく、鶴岡の後ろを凝視しているのではないだろうか。
 それを思うと、彼女が本当に記憶を失っているのか、疑問を感じた。
 しかし、彼女の記憶喪失を疑うということは、そのまま自分の記憶喪失も疑うということであり、そう思うと、次第に忘れていた夢の内容が、記憶から引っ張り出され、そのまま意識として認識されるようになると、夢の内容が意識として感じられるようになっていった。
 鶴岡が見ている視線の先に、光が差し込んでいて、後光が差しているかのようだった。本来であれば、顔がハッキリと見えるなどありえないはずなのに、奥さんの顔がハッキリと分かるのだった。
 すると、奥さんが、今度は眩しそうにこちらを見ている、鶴岡の後ろには光るものを感じているわけではなかったのに、どういうことだろう?
 奥さんは、鶴岡に向かって、会釈をした。その時の奥さんの表情は、初めて見る余裕のある顔だった。
 その時には、その奥さんが事故を起こしてしまって、記憶喪失であるということは知っていた。バスの運転手仲間の中に、そういう世間の三面記事に詳しい人がいて、その人の話を聞けたからだ。
 鶴岡は、その奥さんの特徴を聞いて、すぐに自分をいつも見つめている奥さんであることに気づいたのだった。
 その奥さんというのは、最近、引っ越してきたということで、友達もおらず、いつもバスに乗っては、寂しそうな顔をしているということだった。
 確かに、鶴岡の運転するバスに乗ってくる時も、いつも寂しそうな顔をしていた。しかし、鶴岡と目が合った時だけ、これでもかというほどの熱い視線で、金縛りに遭うような感覚は、夢で見たもう一人の自分を思わせた。
 部分的記憶喪失だと言われてそれを意識した時、想像したのが、もう一人の自分であり、そこから生まれた発想が、
「ジキルとハイド」
 だった。
 ジキル博士が表に出ている時はハイド氏は隠れている。逆の時も同じであるのだが、すると、本当の自分は、ジキルなのかハイドなのか、それとも、どちらも本当の自分なのか、はたまた、どちらも違うのか?
 それ以外に想像はできないはずなのだが、別もあるような気がした。その発想は、すぐに思いつかなければ、二度と思いつけることはないだろう。人生の中で一度だけ感じることができるタイミングがあって、その時にうまく交わることができれば、思いつけるのだろう。それを一度感じると、忘れることはなく、記憶に封印されるのではないか?
 まさかとは思うが、この記憶喪失というのは、そのタイミングがうまく嵌って、自分の中に生まれた発想が、他を寄せ付けないように、意識を記憶に封印しようとしたのではないだろうか? 
 それはジキルとハイドの話に限ったことではない。いくつも似たような発想は転がっている。だから、人間が記憶を喪失するということは、タイミングとの紙一重の可能性が作り上げる芸術なのではないかと感じるのだった。
 ジキル博士が自分の中にもう一人の自分がいることを知っていたのだろうか? 知っていたとして、もう一人の自分が、今表に出ている自分とはまったく違った人間であるということを分かっていて、薬を作ったのだとすれば、すでにドッペルゲンガーという発想があったのだとすれば、ジキルとハイドの作者は、ドッペルゲンガーに真っ向から挑戦する形の話を作ろうとしたのだろうか。
 ドッペりゲンガーも、ジキルとハイドの話も、究極、どちらも、
「もう一人の自分の存在」
 を証明しようとした内容である。
 ただし、ドッペルゲンガーの、
「もう一人の自分」
 という発想は、今表に出ている自分そのもののもう一人の自分であって、見分けがつかないと言われるほどであろう。
 しかし、ジキルとハイド氏は、まったく別の人間だと思われていて、実は同じ人間だったというのが、一つのオチで、その中での葛藤をいかに描くかという物語なのだ。
 だから、最初から別人には見えるが、同じ人間だということがバレても、小説としては別にネタバレになっているわけではないだろう。
 ただ、それは、読者にだけはバレてもいいもので、小説の中では、途中までは流れの中でバレてはいけないということになる。そこが、ドッペルゲンガーとの違いだと言ってもいいだろう。
 ドッペルゲンガーは誰が見ても、同じ人間。それは分かっているので、様子が違っても、別の人間だと思われることはない。
「何か、今日は精神的に落ち込んでいるのかな?」
 というくらいのものであって、別人だと誰も感じることはないはずである。
「ジキルとハイド」
 の話は、もう一人の自分というよりも、
「二重人格」
 という発想が、もう一人の自分という存在の前提になっていることで、できあがっている話なので、ドッペルゲンガーと比較するという方が稀な発想なのかも知れない。
 二重人格というのは、比較的、誰もが自分に感じていることなので、ただ、裏表があるというだけで、
「自分は二重人格だ」
 と思い込んでいる人は多いかも知れない。
 だが、二重人格が表裏のある人間だということと同じだと思っている人は、当然のごとく多いのかも知れないが、ひょっとすると、自分の裏に潜む性格だけを広いあげて、それを、
「二重人格だ」
 と言っているとして、本当にその裏がその人に備わっていると言い切れるのだろうか?
 あるいは逆に、二重人格だと思っていたが、実際にはいくつもの面を持っていて、
「多重人格」
 と言えるほど、たくさんの面を持っているのかも知れない。
 という両面から考えると、二重人格という言葉だけでは語りつくせないものがあるだろう。
 そう言う意味で、たくさんありそうなことを、二つに限って考えがちになりそうな言葉を考えると、
「二枚舌」
 というのもそうかも知れない。
「二枚舌」
 と言われる人のほとんどが、本当に二枚だけなのか? と思える人も結構いるだろう。
 特に歴史などで見てみると、
「二枚舌外交」
 と言われるものがあるが、自分の都合のいいように、まわりの国を洗脳するという意味で、国境を接している国のすべてに、いいようにいう外交であれば、数個の国家に対して、いいようにいうことで自分の保身を守ろうとするだろう。