いたちごっこの、モグラ叩き
と思われたが、夫婦というのは、本当に難しいと感じたのが、その時が最初で、結局親が離婚するようになるのだが、四十五歳になっても、結婚する気にならないのは、離婚した親を見ているからだろうか?
そういえば、離婚した時の父親の年齢が、今の鶴岡くらいの年齢ではなかったか?
そう思うと、ますます結婚などしたくないと思えてならなかった。
「俺は、絵を描き続けられればそれでいいんだ」
と思っていた。
別にコンクールに応募などをして、プロになろうなどと思っているわけではない。今はネットにアップしたり、たまに、ネットの後部の応募したりしていた程度だったが。最近になって、素人でも、安く自分で個展が開けるギャラリーがあることを知って、時々、作品を展示しているのだった。
この年になってから、自分が想像していたよりも、絵画人口が多いことに驚いていたが、ネット以外のリアル画廊で、自分の作品を出品でき、個展が開けるとは思ってもいなかったので、最近では、個展を開くための作品を、コツコツと描いていたのだ。
今度、個展を開こうと思っているところは、喫茶店とギャラリーを併設しているところなので、絵画に興味がなくても、喫茶店を目的にしてくる客が、ひょっとすると見てくれるかも知れない。
プロだったら、しっかりと見てほしいと思うのだが、素人の趣味でしかないので、別にチラ見でも見てくれるだけ嬉しいと思っている。
喫茶店側にもギャラリー側にも雑記帳があるので、そこに誰でもいいから書いてくれると嬉しい。名前を書くだけでも見てくれたということなので嬉しいと思う。
自分が絵に興味もなく、ただ喫茶店に来ただけの客だったら、決して絵を見ることも雑記帳に名前を記すこともないだろう。だから、名前を書いてくれているということは、少なからず絵に興味があり、その目で自分の作品を見てくれたということなので、嬉しいと感じてもいいはずだ。
実際に絵に興味があって、自分でも描いているくせに、人の作品はあまり見ようとは思わない。当然、雑記帳にも書こうとも思わないのだが、自分の中でどうしても他人と比較しているという思いがあることを嫌だと思っているからなのかも知れない。
「人が描いた絵を見ようとも思わないくせに、自分の絵を見てほしいというのはおこがましいことだ」
と考えているからなのか、それとも、
「人が描いた絵を見てしまうと、自分の作品に真似てしまうところが嫌だと思うからなのか、それとも、ライバルと感じる相手をどうしても、自分の中で、上に見てしまうという自分の体質が嫌なのか」
どちらにしても、絵を描くというのは、
「楽しくなければ、絵ではない」
と思うのだが、それは誰にでも共通している考えだと思うのだった。
絵を描いていると、嫌なことは忘れられる。最近感じた嫌なことは、時々乗ってくる奥さん風の人がいるのだが、その人が自分に睨みを効かせるのだった。
その奥さんは、ここ半年くらい、よく乗ってくるのだが、あいりが乗ってこない時には、必ず一番前の席に腰かけて、表や前を見るわけではなく、こちらをじっと見ているのだ。
最初は意識していなかったのだが、その席にいつも座っているあいりのことが気になるようになってから、その主婦の存在に気づいた。それまで気にもしなかったので、きっと、鶴岡がその奥さんを気にし始めたことで、奥さんの視線が強くなってきたのではないかと思う。
「あれだけの視線を浴びせられたら、さすがに鈍感な人間でも、気付くというものだよな」
と思った。
要するに、
「一つの視線では気付かなかったかも知れないが、別の意味で意識した視線があったことで、気が付いてしまった」
という感覚である。
そういえば、
「人間というのは、一つのことだけであれば我慢することができるが、二つ重なってしまうと、そうは我慢できるものではない」
という話を聞いたことがあった。
今回の場合は、楽しいことと、嫌なこととが重なってしまったことでの相乗効果によって、その奥さんの視線を感じてしまった。
絵を描いている時でも、
「バランスが大切だ」
と考えるが、そのバランスというものには、遠近感も含まれる。
どこから描けばいいかという最初の筆の落としどころも、バランスの一つである。そういう意味で、バスの運転の際に、楽しいことと、嫌なことが重なってしまった相乗効果を、バランスと考えるのは、おかしな発想であろうか。
自分が絵を描いている時に思い出すのは、嫌だと思っている奥さんの視線である。
――本当に嫌だと思っているのだろうか?
と考えてしまうのだった。
奥さんの視線を感じていると、どうもその先にあいりがいるような気がしてくる。あいりは別に鶴岡に対して熱い視線を送っているわけではないが、その視線には癒しを感じる。
奥さんの視線も、最初は何か気持ち悪いものを感じていたが、よく見てみると、そんなに嫌いなタイプの女性ではなかった。
そもそも、今まで女性に好かれることがなかった鶴岡なので、女性から熱い視線を浴びるなどなかったのだ。
それだけに、どうしていいのか分からずに、戸惑ってしまう。
ただ、彼女の視線を身体で感じているうちに、その視線が本当に自分に向けられているものなのかどうか、疑問に思えてきた。視線を浴びていて、熱くなってくるのは、背中だったからだ。
――俺を見ているわけではなく、俺の後ろに誰かがいて、それを見つめているようではないか――
と、感じると、今度は、背筋がゾクッとしてきた。
まるで怪談話のようで、以前に読んだ怪談話を思い出していた。
鶴岡は怖がりなくせに、ホラーや、怪談話が好きだった。
「怪談百夜話」
などという小説を読んだりして、夜一人でトイレに行くのが怖くなったなどという、それこそ怪談話を読んで、本末転倒な笑い話になったなどというオチだったりする。
そんな話の中で、怖かった記憶のある話に、自分が見つめている相手が、実は自分だったという話を読んだことがあった。
今回、あの奥さんに見つめられているのを後で思い出してみると、その怪談話が思い出されて仕方がなかった。
そう思うと、自分が見つめている相手を通り抜けて、自分が本当に見ているのは、その奥さんの向こうに見える誰かではないかと思ったのだ。その誰かというのは、奥さんの背中をじっと見つめている自分だということに気づくと、自分も奥さんに見つめられていることで、自分の後ろに、もう一人の奥さんが控えていて、後ろを振り向こうかと思ってみたが、金縛りにあってしまって。振り向くことはできなかったのだ。
その事情が分かると、目の前にいるはずの奥さんの姿がスーッと消えていく。奥さんの後ろに見えていた。もう一人の自分の姿を見ることもできなくなっていたのだ。
今までで見た夢で一番怖かったのは、
「もう一人の自分が出てくる夢」
だったのだ。
怖い夢の最後は、もう一人の自分の出現で必ず終わる。逆にいえば、もう一人の自分が現れなければ、怖い夢を見続けなければいけないということだ。
作品名:いたちごっこの、モグラ叩き 作家名:森本晃次